とりあえずやってみる
どんな仕事でも、やってみなければ好きか嫌いかなんてはっきりしないし、自分に向いているかどうかもわからない。どの仕事にだっておもしろい面とそうでない面があって、あとは自分の好みや性格や能力と合うか合わないかだけの問題だから、どうしても嫌だと感じていないのであれば、迷わずに何でもやってみるといい
大人の中には「こんな仕事は何の役にも立たない」なんて自虐的なことを言う人もいるけれども、本当に何の役にも立っていなければ仕事として成立しない。少なくとも世界に何らかの影響を与えているから、それが仕事として存在しているわけで、つまらない大人のいいかげんな言葉を信じる必要はない。実際にやってみて、大人の言ったことが正しいかどうかを確かめればいい。
どうせわからないのだからやってみる。あれこれ悩むよりもやってみる。目の前に現れた仕事を実際にやってみて、思っていたものとちがっていれば辞めればいい。それだけのことだ。何も難しくない。どんどんやってみることをお勧めする。慌てずにのんびりとあれこれ試せばいいのだ。
そんなふうにみんなには勧めているものの、僕自身はやっぱり何もしたくない。何度も書くけれど、仕事はこちらが選ぶものではなく、向こうが勝手にこちらを選んでやって来るものだと思っている。だから僕としてはできるだけ選ばれたくないし、やって来て欲しくもない。そっとしておいて欲しい。
そもそも僕には自分から積極的にやりたいことがない。もちろん中学生や高校生のころには、将来はこんな感じの人になれたらいいなと漠然とした思いや憧れはあったものの、具体的にやりたいことや、なりたいものがあったわけじゃないし、それから三十年以上経った今でもそれはたいして変わらない。
やりたいことがあるとすれば、ゴロゴロしながら海外ドラマを観たり本を読んだりする暮らしで、残念ながらこれは仕事にならないから、仕事に選ばれたら、とりあえずやることにしている。
いま僕は、仕事として広告やテレビ番組をつくり、エッセイや小説などの文章を書いている。もしもそれが好きなのかと聞かれたら、僕は少しだけ悩んだあとに「たぶん今やっているものは好きなのだと思う」と答えるだろう。
人を陥れるような文章を書いたり、インチキ商品の広告をつくるような仕事であれば、さすがに嫌だから断っているはずで、断らずにやっているということは、少なくとも嫌いではないはずだ。
やりたいかどうかはわからないけれども、なんとか続いているのは、たぶん少しは好きな面があるからだろう。
どうだ。こんな歳になっても、まだ僕は自分の好き嫌いもやりたいこともわかっていないのだ。きっとこのままずっとわからないのだろうと思うし、それで構わない。やりたいことを見つける必要を僕は感じていない。
焦らなくていい
将来どうしたいのかを、どんな仕事に就きたいのかを、自分は何が好きなのかを、早く見つけなきゃならない、早く決めなきゃならない、きっと君はそんなふうに感じているだろう。周りの子たちが将来の道をどんどん選んでいるように見えて、焦ってもいるんじゃないかな。
でも慌てる必要なんてない。君の親や学校の先生たちが体験してきた時代と今とでは時間の流れ方がまるで違っているのだから。
世の中の仕組みの多くは、人生がここまで長くなかったときにつくられたものだ。人生がずいぶん長くなった現代の基準にあわせれば、ものごとを決める時期なんてもっと後ろにしても構わないし、考え直す余裕だってたっぷりあるはずなのだ。
それなのに、学校の先生も親も社会も昔と同じままのタイミングで、将来について、たったの一回で決めさせようとするから話がややこしくなるのだ。
もちろん今の君が決めることは将来の君自身につながっていく。でもそれだけですべてが決まるわけじゃない。この先、何度も選ぶタイミングはやってくるし、ここがおもしろいのだけれども、たとえ選んでもけっしてそのとおりにはいかない。
僕なんて五十歳を過ぎているけれども、もしも八十歳まで生きるとしたら、あと三十年近くもあるのだぞ。三十年もあればいろいろなものが大きく変わるだろう。社会が大きく変わるのだから、僕が何をどう決めたところで、そのとおりに進むはずがない。
もちろん、やりたいことが見つかれば、きっと楽しいだろうと思う。好きなことを仕事にできれば、多少のつらいことがあってもがんばれるだろうと思う。でも、だからこそ、やりたいことや好きなことを仕事にするときには注意が必要だ。君たちの楽しさや嬉しさを上手く利用しようとする大人が、じつはたくさんいるのだ。たいていの場合、彼らは同じ言葉を使う。
大人が「やりがい」と言い出したら要注意だ。次回はその話をしよう。