連れていかれた先は、古いビルの古いスタジオだった。
生ピアノの音が流れていて、叱咤激励するオバハンの声がする。
子供たちが、並んでポーズを取っていた。なにやら堅苦しい、ぎくしゃくとした、人形めいた、これまで全く見たことのない動き。
あまりにも奇妙な動きと、そのポーズに、オレはあっけに取られて見入った。
オレよりも年下の小さな子もいれば、もうちょい上の奴もいた。
「なんだ、これ」
「バレエよ」
ぬるい、幼稚い、かったるい。
それが第一印象だった。ハエが止まりそうにトロくてダサい、謎のマス・ゲーム。
「あんた、今、ぬるくてトロくてダサい、って思ってるでしょ?」
黒髪にそう言い当てられてぎくっとする。
「なんで分かった?」
黒髪はくっくっ、と笑った。
「顔に書いてあったわ。もう少し見てなさい。次は上のクラスのレッスンだから」
「運動」。
奴の付けたタイトルは、身も蓋もない、なんのそっけもないタイトルだった。
いつのまにか、奴の振付で、奴とオレとで発表会に出ることになっていたのだ。
オレは呆然とした。
奴は連日オレのところにやってきて、当然のように、ますますアレコレ指図する。でもって、オレはしゃかりきに踊らされている。
なんだこれ? なんでこんなことになってる?
「円盤投げだけじゃ間が持たないから、槍投げとか砲丸投げとか、投擲競技全般を使うことにしよっかな」
「いっとくが、もちろんどっちも経験ないからな」
「俺だってないよ」
奴は、ああでもない、こうでもない、とめまぐるしく身体を動かしていたし、いくらでもアイデアが湧いてくるようだった。
オレは身体能力に絶対の自信があったが、一緒に稽古するうちに、奴にも同等の能力があることに驚かされた。普通に、奴が踊っている時にはそうとは気付かないのに。
なぜだ?
オレは間近で奴を観察した。そして、ごくごく単純な事実に気付いた。
技術が踊りに奉仕しているのだ。
当たり前だろ、と思うかもしれないが、実はそうじゃない。ダンサーがテクニシャンであればあるほど、実際には逆になっていることが多い。つまり、踊りが技術に奉仕する――隷属する、と言ってもいい――技巧を強調するための手段になってしまう。
ところが、奴の場合、ハナから技術はあくまでも踊るための材料であり、潤滑油であって、踊るという最終目的のための二義的なものに過ぎない。
この違いは、でかい。だから、こいつは振付ができるのだ。踊りという最終目的しか頭にないのだから
だからこそ、こいつと踊るのは楽しいのかもしれないな、とも思った。
ずっと成績を、テクニカルなものに対する評価を気にしてきた。ずっと奨学金を獲得してきた。カミーユとイヴォンヌに恥をかかせるわけにはいかない。それだけが頭の中にあって、踊ることが楽しい、と心から思ったことはあまりなかった。
最初のあの時を除けば。
ちびっ子たちがはけて、次に入ってきたのは、オレよりも少し上の年代。十三歳から十七歳というところか。
ぞろぞろと入ってきた連中を見て、「おっ」と思った。
明らかに身体が違う。鍛えて、作りこまれた身体。
キレイだな、と素直に思った。適度についた筋肉や、身体のラインを見て、気持ちイイと思った。
レッスンが始まり、驚いた。
さっきのちびっ子たちとやっていることは同じなのに、全く違う。精度が、密度が、印象が違う。ヘンでかったるいと思ったポーズが、なんだかカッコよく見えてきたのには、我ながら不思議だった。
「はい、センター」
手を叩いておっかないオバハンが言った。俺をここに連れてきたプラチナブロンドも一緒に指導している。黒髪はずっとオレの隣にいて、さりげなくオレの反応を窺っていた。
センターという、動きが伴うレッスンは、見ていて面白かった。
跳ぶ、回る、なんだかちまちまとした動きの組み合わせ。
一人、目立つ少年がいた。十五、六歳だろうか。黒髪で、色白。誰よりも高く跳びあがり、びっくりするほど滞空時間が長い。空中で、キレイに足が一直線になっていて、思わず歓声を上げていた。回るのも、きちきちとしていてスピードがあり、目の覚めるようなシャープな動き。
気がつくと、そいつばかりを見ていた。その水際立った動きから目が離せなかったのだ。
レッスンが終わっても、そいつは一人で黙々と稽古をしていた。
不思議な動きのジャンプ(と回転?)。身体を斜めにして跳びあがり、空中で一回転半して着地、という、なんだか難しそうで、でも、なんだか気持ちよさそうな、面白い動きのワザだった。
「ジュール」
隣の黒髪が、立ち上がって声を掛けた。
そいつは動きを止め、こちらを見て、オレに気付いた。
「見学者なの? ママ」
黒髪の息子だったのか。言われてみれば、似ている。
「そうよ。××(オレのいた界隈の地名)でサッカーしてるのを見て、ナンパしてきたの」
「なるほど。その足だもんね」
そいつは、オレの足に目をやり、チラッと笑った。
そして、オレの顔を覗き込み、センターを指差した。
「どう? 跳んでみる? その足だったら、跳べるだろ? さっきの僕のジャンプ、見てた?」
その時のことは、よく覚えていない。
オレはスッと立ち上がり、いつのまにか前に出ていた。
跳べる。なぜか、その言葉だけが頭の中にあった。
黒髪とそいつ、そして、プラチナブロンドも、前に進み出たオレに、きょとんとして注目していた。
ストリートサッカーは危険がいっぱいだ。
車にチャリ、歪んだ溝に釘やら鉄やら突き出た柵、酔っ払いがカチ割った酒ビンに犬のクソ、下手すりゃ酔いつぶれてる酔っ払い本人、デコボコの石畳に坂の傾斜、どこからともなく現われるガミガミうるさくて底意地が悪いマッポ、いかれたチンピラに罵声にクラクション。常にどこに誰がいて、どの方角から何が来るか、どこに向かっているのかを視野に収めていないと、文字通り命取りになる。
それに比べたら、こんなにまっ平らでホコリひとつない、障害物のない床なんて、天国みたいなもんだ。
跳べる。オレは跳べる。
そう念頭にはあったけれど、跳んだという自覚すらなかった。
が、オレは跳んでいた。
腕を振り上げ、上体を斜めにして、空中で一回転半。
なんという爽快感。
着地には失敗したが、顔に風を感じ、天にも昇る高揚があった。
ワッ、という歓声。
プラチナブロンドが、黒髪が、黒髪の息子が、驚愕し口をあんぐりあけ、目を輝かせている。
嘘でしょ?
いきなり540って――
僕は、さっきのセンターレッスンのジャンプのつもりで言ったんだけど。
プラチナブロンドと黒髪が飛んできて、オレの肩をがっちりとつかんだ。その目に浮かんでいた興奮と歓喜は、今でも忘れない。
「あんた、名前は?」
まだ、跳んだ快感から覚めていなかったオレは、ワンテンポ遅れて、返事した。
「ハッサン・サニエ」
槍投げの動きを、二人で交互に、アニメのコマ落としのように少しずつポーズを変えて再現する、というのはなかなか面白いアイデアだった。
スマホで撮影してもらったのを見て、二人でウケる。
ぎゃははは、これ、笑えるな。
連続写真。他のでもやってみよっか。
スポーツ競技の動きを取り入れる、というのは過去の作品にもあったと思うが、奴の「運動」はその先の展開が面白かった。まさに「展開」という感じで、円盤投げの動きを繰り返しているうちに、いつのまにかクラシックのパ・ド・ドゥになっていたり、シンクロしたコンテの動きになっていたり。
いろいろな動きが出来てきて、「音楽はどうするんだ?」とオレが尋ねると、奴は決めていたらしく、小さく頷いた。
「タランテラ」を使おうと思うんだ。
あの、タンバリン使うやつか。確かにちょうどいいかもな。
俺さ、「タランテラ」に関しては、つねづね思ってたことがあってさ。
奴は真面目腐った顔で話し始めた。
あの踊り、ずっと同じテンポで間断なく男女が出たり入ったりするんだけど、拍手する隙がないんだよねー。どこで拍手すればいいんだろ、っていつも迷うんだ。だから、俺たちの踊りは拍手できるようにしようと思って。
よく分からんこだわりだな。
が、実際、二人で決めのポーズを作って何拍か舞台にとどまるようにしたので、奴の望み通り、要所要所でいっぱい拍手が来た。なんだか知らんが、やたらとウケて爆笑が巻き起こったのは想定外だったが。
やっぱり、ハッサンだからできたんだねえ。
カーテンコールのあとで、奴はオレに向かってニッコリ笑った。
嬉しいような、そうでないような、複雑な気分だ。
今日は、俺とハッサンの共同作品の記念すべき第一弾だ。
奴は興奮した声で言った。
つーことは、この先も続くんだな?
オレの声は、どことなく疲れていた。
もちろん! 奴は力強く答える。
やっぱり嬉しいような、そうでないような。が、今日の奴の言う第一弾が、とんでもなく楽しかったのは事実だったので、オレはあえて文句は言わなかった。
(第二話 了)
第二話 夜明けの光(後編)
spring another season
2024年3月の発売直後から大注目・恩田陸のバレエ小説『spring』、待望のスピンオフ連載がスタート! 本編では描ききれなかった秘められし舞台裏に加えて、個性弾けるキャラクターたちの気になるその後も明かされる予定です。表現者たちの切ないほどに尊い一瞬をぜひ最後まで見届けてください。第二話の主人公は驚異的な身体能力が武器のダンサー、ハートは繊細なハッサン・サニエです。期待の後編へ!