ちくまプリマー新書

ファッションを芸術として研究する可能性を切り拓く
『東大ファッション論集中講義』書評

ファッションとは何か? 衣服とは?——文化や芸術としてのファッションを考える話題の書『東大ファッション論集中講義』(平芳裕子著、ちくまプリマー新書)。元となった講義を招聘した東京大学の吉田寛さんに改めて本書を読み解いていただきました。

 本書を手に取られた読者はお気づきのように、本書の帯には「東京大学文学部史上初の講義を書籍化!」と書かれている。本書は、著者の平芳裕子が、二〇二三年夏学期に東京大学文学部・大学院人文社会系研究科で行った集中講義の書籍化であり、評者は東京大学美学芸術学研究室の教員として、その世話役を務めた。「芸術」という語を冠する東京大学で唯一の研究室として、当研究室では、美術、音楽、建築、映画、写真、舞踊、俳句、茶道など、さまざまな芸術ジャンルの講義を毎年開講している。しかしなぜかこれまでファッションの講義は無かった。ファッションは学生の関心が高く、ファッション関連の卒業論文もたまに出ているほどなのに、である。そこで、私が声をかけられるほぼ唯一のファッション研究者である著者にお願いし、関西からはるばるお出ましいただいた次第である。

 しかしながら、この「史上初」という状況(逆境?)を、著者が自覚的かつ積極的に引き受けて、意欲的な講義を準備してくれたことは、本書からもよく伝わってくる。著者は本書を通じて、「ファッションを研究すること」の学問としての意義を考え、伝えようとしているからである。その意味で本書は、「ファッションについての講義」というより、「ファッションを研究することについての講義」と呼ぶべきだろう。実際、著者は「イントロダクション」で、現代美術の研究から出発した自らの経歴を振り返りながら、「なぜファッションは学問として認められてこなかったのか?」という問いを立て、それに自分なりの解答を試みている。著者の見立てでは、ファッションは、時代に限定された気まぐれな流行にすぎない(刹那性)、芸術作品というよりも実用品である(日常性)、婦女子のための文化や技術である(女性性)という三つの理由によって、「正当な学問の対象」とは見なされてこなかったのである。

 その状況が変わったのは一九九〇年代以降である。欧米ではカルチュラル・スタディーズの影響下でファッション研究が成立し、同時代の日本でも鷲田清一に代表される哲学者や社会学者、文化人類学者たちが盛んにファッションを論じ始め、さらに二〇世紀末になると「ファッション・スタディーズ」と呼ばれる学術領域が確立され、専門的学術誌も創刊された。こうしたメルクマールを指摘しながら、著者が叙述するファッション研究の「学問史」は、ゲーム研究を専門とする評者自身にも興味深い。コンピュータゲームやビデオゲームを研究対象とする「ゲーム・スタディーズ」が、二〇世紀末に文学研究やニューメディア研究から独立し、新たなディシプリンとして編成されてきた過程と、ファッション研究の成立は、少なからぬ点で類似・並行した現象のように思われるからだ。

 評者は、美学芸術学研究室の一員として、主にデジタルゲームの研究を行っている。美学(エステティックス)とは美や芸術や感性を対象とする哲学であり、芸術学とは文字通り、諸芸術ジャンルを対象とする学問である。評者自身はデジタルゲームを「芸術」とは見なしておらず(そう見なす研究者もいるが)、美学(感性の学)の対象としてそれを研究している。しかしそのような次第で評者は、「芸術」なるものの境界の問題、すなわち何かを「芸術」と呼ぶこと(あるいは呼ばないこと)の権力性や政治性には、日々の仕事のなかで常に敏感にならざるをえない。

 ファッションが「婦女子のもの」として学問や芸術から遠ざけられてきたのと同様に、遊びやゲームは「子どものもの」として軽んじられてきた過去がある。この偏見をひっくり返すには、学問や芸術の側からではなく、ヒトの根源的欲求や必要性の側から対象を眺めるのが有効である、と評者は考えてきた。その意味で、著者が本書を「裁断と縫製」(第1講)や「礼儀作法」(第2講)の問題から始めているのは示唆的である。

 本書は、ファッションを芸術として研究する可能性を拓いてくれるだけでなく、芸術という概念やそれを支える諸価値を裏側から透かし見せてくれる本でもあるのだ。あたかもすべての布地には等しく裏と表があるように。



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