†複雑で使いにくい社会保障
なぜ日本の社会保障は、これほどまでに複雑でわかりにくく、使いにくいのか。読者各位も、一度はこのような思いを抱いたことがあるだろう。
社会保障とは、医療や老後の年金、介護、子育てなどに関わる公的な給付であり、日本国憲法25条(生存権)にその法的な根拠をもつ。人々が日々の生活に不安を持つことなく、健康で文化的に生きていくための生活保障を目的とするものと言える。
ただし、日本の現実はその理想のようになっているだろうか。そうではない、ということを示すために、世の中で苦境にあえぐ沢山の人々のことを描写することもできる。けれども、そのやり方では筆者自身にとってリアリティを欠くため、ここでは筆者が現実に体験したことを例として挙げたい。
筆者の実家で、家族と同居していた祖母が認知症を患った。家業を営みながらの昼夜を問わない見守りに家族が疲弊し切ってしまい、実家での介護が困難になった。実家から連絡を受けた筆者は「祖母に要介護認定を受けてもらい、介護保険で施設に入所してはどうか」と提案した。しかし実家では、公的な保障に頼ることに対する抵抗感があった(「人様の税金を使うのは……」とか、「よそに預けるのは婆ちゃんに申し訳ない」など)。
筆者が実家に帰り、何とか家族を説得して要介護認定の申請を行い、手続きを完了したものの、国民年金だけしか受給していなかった祖母の年金で入所できる施設はどこにもない。筆者は当時すでに社会保障法学を専門とする大学教員であったが、実際に自分の身に降りかかってみると、役所の窓口での説明もケアマネジャーによる説明も十分には理解できなかった。さらにインターネットでいろいろと調べたが、得られた情報のニュアンスから、祖母にとって使える利用費減額の仕組みはないように感じられた。そこで当初入所していた施設では、親族の援助も受けながら、言われるがままの利用費を支払っていた。
その後、筆者が研究上の必要があって制度をもう一度細かく調べたところ、実はほかにもたくさんの利用費減額の仕組みがあったことを知った。祖母が別の施設に移った際にそれらの仕組みを適用することで、信じられないほど利用費が減額された。
†問題はどこにあるか
この筆者自身の体験から、現在の日本の社会保障における重要な問題をいくつか取り出すことができる。
第一に、制度が非常に複雑なことである。介護保険の利用費減額についてはざっと4つの制度があるが、役所の管轄も異なっており、制度適用の可否に深く関わる本人の所得金額( ≒納税額)の計算も制度ごとに異なるなど、本当に複雑である。そのため役所の窓口の職員やケアマネジャーなどの専門家でも制度の相互関係の把握が難しい。後ほど紹介するが、利用者の相談に対して制度を正しく説明しなかったことによって、行政や医療法人に損害賠償が負わされた裁判すらある。社会保障の利用者だけでなく、社会保障を提供する側も困難を強いられている。
第二に、いざ制度を使おうとする際に、本人や家族の意識がブレーキになることがある。介護保険のように、ある程度利用しやすくなってきたと思われる仕組みであっても、やはり一定の年齢・地域・個人によっては抵抗感がある。ほかにも、例えば子育てについて、可能な限り自力でやることが子どものためになるという意識が感じられる。生活保護の受給についての抵抗感はなおさらだろう。公的な仕組みを利用せずに何とか踏みとどまっている人からすると、福祉(社会保障)に頼っている人は「甘えている」ように映るかもしれず、その批判への恐れがまた、利用への躊躇を生む。
つまり第一の点のように、そもそも制度が複雑でわかりにくく、使いにくい。そのうえ第二の点のように、利用者の側に心理的な抵抗感が生じることによって、なお使いにくい。二重の意味で、日本の社会保障は非常に使いにくいものになっている。
さらに問題は、これだけではない。日本の社会保障は、働き方によって適用関係が分かれている。
筆者自身の経験に話を戻すと、自営業を営んできた筆者の祖母は国民年金のみの加入であった。国民年金の老齢年金は、平均月額が5.5万円程度である(これに対して会社員や公務員が加入する厚生年金の老齢年金は、平均月額が14.5万円程度である)。このことは老後の生活だけでなく、十分な介護や医療を受ける余裕があるかどうかという問題にもつながる。
年金以外に目を向けると、制度上、自営業者・個人事業主は国民健康保険(国保)に加入するため、ケガや病気で休業するときの収入保障も、産休中の収入保障も受けられない(会社員らが加入する健康保険(健保)には、それらが傷病手当金と出産手当金という形で存在する)。さらに、自営業者・個人事業主は労災保険や雇用保険にはそもそも加入すらできない。
働き方によって社会保障が異なることは、制度の複雑さや使いにくさの一因となるだけでなく、人々が自らの望む働き方・生き方を選ぶうえでの障壁になることもある。よって、働き方によって社会保障の適用関係が異なることも、日本の社会保障の第三の問題として挙げる必要がある。
このように、日本の現在の社会保障はいくつかの問題を抱えている。人々が日々の生活に不安を持つことなく、健康で文化的に生きていくための生活を保障するという目的が、十分に達成されているとは言いがたい。