ちくまプリマー新書

物語を通して孤独を理解し、良い孤独のある社会を想像する
『ぼっちのままで居場所を見つける――孤独許容社会へ』より「はじめに」の一部を公開!

映画、マンガ、英文学の名著、とある女王の史実までを読み解き、良い孤独のある社会、孤独を許容する社会を想像する『ぼっちのままで居場所を見つける――孤独許容社会へ』より「はじめに」の一部を公開します。

はじめに

 孤独。この言葉を聞いてみなさんは何を思うでしょうか。

 本書を手に取ってくださっているのですから、「孤独」について何らかの思いがあり、知りたいことがあるのでしょう。自分が孤独を感じているのかもしれないし、身近な人が孤独に苦しんでいるのかもしれません。または過去に孤独に苦しんだことがあったり、将来の孤独の予感に震えていたりする人もいるかもしれません。

 ひょっとすると、今の言い方はちょっと大げさで、「孤独」より「ぼっち」と言った方がピンと来やすいでしょうか。「ぼっち飯」などという言葉も最近はありますが、日常の行動をするにあたって友達がおらず、それを独りでしている。感じたり考えたりしたことを共有する相手がいない。自分の存在が承認されない。そんな状態です。

 少なくとも、今書いたことに表れているように、ぼっちであれ孤独であれ、それは一般的に、まずは否定的な言葉です。それは何かしら避けるべきものだと感じられているのではないでしょうか。

 実際、現在、さまざまな社会で孤独が社会問題化しています。イギリスでは二〇一八年に「孤独問題担当大臣」が設置されました。この役職は短命に終わったものの(二〇二一年に廃止)、イギリスをモデルとして日本でも孤立・孤独担当大臣が二〇二一年に設置されました(二〇二四年に廃止)。

 これらの役職が廃止されたのは孤独問題が解決されたからというよりは、本書で示していく通り、孤独が社会のさまざまな側面に関わる全体的な問題であり、それだけを取り上げて解決できるようなものではないからでしょう。

 二〇一九年から続いたコロナ禍もまた、孤独の問題をくっきりと浮き彫りにしました。学校の授業はオンラインとなり、友達と会うこともなく、自宅の部屋で独りオンライン授業にアクセスする日々。入院中の家族や介護施設の高齢者との面会もままならなくなり、せいぜいテレビ電話で様子を見ることしかできなくなりました。現在そのような状況は解消されたものの、コロナ禍の経験は、それまで孤独を特に意識しなかった人びとにとっても、それが身近な問題として感じられるきっかけになったかもしれません。

 実際、本書を書いている現在(二〇二四年)は、コロナ禍も一段落し、学校や仕事も「平常営業」へと戻った雰囲気です。しかしどうも、そんな状況だからこそ少し調子を崩している人たちも目立つ気がします。コロナ禍が、私たちの潜在的な孤独の感覚について何らかのトリガーを引いたのではないでしょうか。人と共にあること、そして独りでいることの意味合いが少し変わってしまい、もう元には戻れなくなってしまった。それにうまく適応できないということが生じているのかもしれません。

 その場合にも、やはり孤独は否定的なものとして捉えられています。そして否定的な避けるべきものとしての孤独は、確かに存在します。孤独をテーマとする本書も、そのような意味での孤独からまずは出発することになりますし、人びとを苦しめ、場合によっては死にまで追いやる孤独を解消するにはどうするかという問題意識を手放すことはありません。

 ですが本書では、孤独を解消するという大きな目的のためにも、一度孤独の意味を解きほぐして、孤独は本当に悪いものなのかを問うてゆきたいと思います。良い孤独もあるのではないか。

 そのように問うにあたっては、孤独が個人だけの問題ではなく、歴史的・社会的なものであることも強調していきたいと思っています。

 言い換えれば、「孤独を解消する」と言っても、そこには二つの意味があり得るということです。ひとつは現在私たちが持っている「孤独」の意味は変えずに、その(悪い)孤独から脱するということ。そしてもう一つは、孤独(または「ぼっち」)という言葉の意味そのものを変えていき、場合によっては孤独に積極的な意味を見いだしていくことです。本書のタイトル『ぼっちのままで居場所を見つける』が意味するのはそれです。つまり、「ぼっち」を否定的な意味から解放しつつ、同時に私たちが孤立に苦しむわけではない道を探りたいと思います。

 そして、副題の『孤独許容社会へ』にこめられているのは、それをするにあたって、個人的なものだけではなく、社会的な原因や解決法を見いだしていきたいということです。本書では個人的な孤独の原因も見すえながら、最終的には社会的な解決を目指したいと思います。

 本書の著者である私は心理学者や社会学者ではありません。そうではなく、イギリス文学・文化、それからポピュラー・カルチャーを研究しています。これまで、『増補 戦う姫、働く少女』(ちくま文庫)、『新しい声を聞くぼくたち』(講談社)、『はたらく物語』(笠間書院)、『正義はどこへ行くのか』(集英社新書)といった著作で、ポピュラー・カルチャーの作品と英文学などの作品を横断する形で論じてきました。

 その際に私は、そういった作品を「物語」または「表象」(「表現」と置きかえてもいいのですが、もっと、現実そのものではなく、ある程度典型化して心の中で思い描いたもの、というニュアンスがあります)として分け隔てなく扱いつつ、それと「社会」との関係を考えてきました。その場合に社会的なものとして重視してきたのは、ジェンダー(社会的な性別)や階級(労働)です。

 このように言うと、現実の社会があって、物語や表象はそれを写し取るといったふうに考え、従って物語を社会的に読むというのは、物語がいかに現実を反映しているかを読むことであると思われるかもしれません。

 しかし、本書の前提となっているのは、もう少し複雑な考え方です。それは、「現実の社会」もまた、生の現実として存在しているわけではなく、物語や表象によって作りあげられている部分があるという考え方です。例えばジェンダーを考えてみてください。男らしさや女らしさというのは、大いに物語的なものや表象によって作りあげられています。

 少し難しい言い方をしましたが、要するに、物語はある時代の気分や多様な経験をうまく典型化して表現しているし、逆にそんな物語を通じて私たちは現実を理解しているということです。

 もちろん、心理学的に孤独の心理そのものを解明したり、社会学的に孤独の社会的現実を記述したりということも可能ですが、本書では孤独がいかに物語化され、物語がいかに孤独の意味を変えたり定めたりし、孤独についての私たちの認識を作りあげているかということを論じて行きたいと思います。さらには、人間が物語を必要としていることと孤独(の解消)との間には深い関係があるのではないか――これも本書が最終的に考えたいことです。

 最初に述べた通り、読者のみなさんは孤独についてさまざまな経験をお持ちだと思います。過去に痛々しい孤独の経験をした人、今現在孤独に苦しんでいる人、未来の孤独の予感に震えている人、はたまた身近な人の孤独をどうやって解消できるか悩んでいる人、さらにはまったく逆に、孤独が好きな人……。さまざまな人が本書を手に取ってくださっていると思います。本書が孤独をめぐるそういったすべての経験に応えるものになっているかどうかは自信を持って断言することはできません。ですが、どのような種類のものであれ、孤独について考える際の一助に本書がなることを願っています。



『ぼっちのままで居場所を見つける』

10月10日頃発売!

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