ちくま文庫

路上で世界の見方が変わる

毛利嘉孝『ストリートの思想 増補新版』について、美術批評家の椹木野衣さんがエッセイをご執筆してくださいました。ニッポンの地下水脈を読み解いたオルタナティヴ思想史である旧版に、2010~20年代についての分析を増補して文庫化しました。本書を椹木さんはどう読まれたのか。ぜひお読みください。(PR誌『ちくま』10月号から転載)

 初めてデモで路上に出たとき、世界がまったく違って見えた。二〇〇三年、イラク戦争開戦への抗議活動のときのことだった。本書で主要な「ストリートの思想」の担い手として登場する小田マサノリも一緒だった。そのとき、わたしは岡本太郎がベトナム戦争反対の意見広告のために書いた題字に触発され、小田らと「殺す・な」というユニットを組み、賛同者(SNSもなかった)に路上への参集を呼びかけていた。と言っても、私たちの周囲に日頃から政治的な活動を意識的に行なっているものはまったくと言っていいくらい、いなかった。最悪、呼びかけ人だけになったとしても、それはそれで貫こうと覚悟だけはしていた。ところがどうだろう。唐突な呼びかけにもかかわらず、当日、いったいどこに潜んでいたのかと思うほど、次から次へとたくさんの人が溢れるように集まって来た。
 かれらはアーティストやデザイナー、パフォーマー、ミュージシャン、フリーライター、編集者といった「烏合の衆」で、デモへの参加自体が初めてだった(本書には登場しないが、もっともラディカルな「ストリートの思想」の実践者「Chim↑Pom」結成前の卯城竜太や林靖高に出会ったのもこのデモのときだった)。旧来のデモのような団体行動としてスタイルの一致はまったくなかった。ただ、人を「殺すな」という強い情動を共有していれば、スタイルはなんでもよかった(なかには「殺す」というプラカードを掲げる者さえいたが、誰も非難しなかった)。
 いま思えば、あのときわたしも著者の説く「ストリートの思想」が誕生する一端に関わっていたのだろう。それが冒頭に記した「世界がまったく違って見えた」ということでもあった。それまで活字を通じ著作を世に問うか、展覧会というかたちに置き換えて社会との接点を見出して来たわたしにとって、車が人そっちのけで走り回り、企業と国家によって占有されている路上に皆で立つということ自体が、思想の実践というよりも思想のかたちそのものであり、世界の見え方を変える(それこそ思想が備える最大の力だろう)ことができるのに気づいたのだ。
 と言っても、そのときわたしは、この「世界の見え方の変化」がどのような文脈を通じて自分のなかに流れ込み、多くの人を路上へと突き動かしたのか、まったく理解できていなかった。だから、著者が二〇〇九年に『ストリートの思想』を世に問い、一連の動向について時代を追って整理・分析して見せたとき、自分のなかでそのときなにが交錯し、「点から線へ」(本書で最大のキーワードだ)と繋がったのかを知ったのだった。別の言い方をすれば、「批評」や「大学」という「点/内部」のなかでものを考えていた自分を「路上/外部」という「逃走/闘争の線」へと身体ごと導いてくれたのが著者の唱える「ストリートの思想」だったのだ。
 いま大学という語が出たが、かつて言論の拠点であった、ということは外部的な政治性を持ちえた大学が、いかに制度的な「点」へと収束し、骨抜きにされていったかという大学論も、本書をいま読むことの意義のひとつだろう。というのも、本書で「ストリートの思想」の萌芽を、矛盾を内包したまま提示した「ニューアカ」の担い手であった浅田彰(京都造形芸術大学、現・京都芸術大学、二〇〇八年〜)と中沢新一(多摩美術大学、二〇〇六年〜一〇年)が、いずれも本書の刊行と前後して大学の籍を「美大/芸大」へと移したからだ。また同じくニューアカの旗手として名をなした伊藤俊治は多摩美術大学と東京藝術大学、武邑光裕は日本大学芸術学部、四方田犬彦は明治学院大学芸術学部に、かつて籍を置いていた。加えて本書の評者であるわたし自身が多摩美術大学の教授であり、なにより本書の著者自身が現役の東京藝術大学大学院教授で、同大学の現在の学長はかつての八〇年代の「若者たちの神々」日比野克彦にほかならない。いったい、これは偶然なのだろうか。
 わたしはここに、著者の唱える「文化」と「美術/芸術」とを隔てる微妙だがいまだ不可視のズレのようなものを感じる。両者はしばしば政策的に「文化・芸術」と一括りにされるが、この束ね方にわたしは以前から強い違和感を持っていた。本書に積極的な意味を付してちりばめられた言葉を借りれば、この「ズレ」こそが、本源的な「美術/芸術」がどこかで備えずにはおられない「周縁」と「愚鈍」、「マヌケ」や「だめ」さということと、どこかで繋がっているのではなかろうか。

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