ちくまプリマー新書

この世にあるすべての本が、すべての人のために書かれている
『小説にできること』より「はじめに」を公開!

小説という表現形式に秘められている大いなる可能性と、この世界にあるすべての本を君は読むことができるという事実について。小説好きにも、そうでない人にも読んでほしい『小説にできること』より「はじめに」を公開します。

はじめに

 まず「本」の話。

 この本は、小説のことなんか別に興味ない人のために(も)書かれている。

 小説をあんまり重要に思っていない人、あってもなくてもいいもんだと思っている人、なんで小説なんかを真剣に研究したりする人がいるのか判らない人、「文系」を内心で見下している人。そういう人に、この本が届けばいいと、願いながら僕はこれを書いた。

 小説は、小説が好きな人のためだけにあるのではない。

 それにどんなことでも、それに真面目に取り組んでいる人がいる分野を、一応、知っておくのはいいことだ。

 自分にとっては全然興味のないことでも、誰かにとっては一大事で、生涯をかけて立ち向かっている人がいる。そんなジャンルについて、こっちにはカンケーねえし、とか思って無視をするのは、とんでもなくつまらないことだ。それは結局、自分の狭い殻に閉じこもっているのと同じだからだ。

 数学や物理学、フランス料理や石の種類やメロヴィング王朝について、君はまるで興味がないかもしれない。それでもそういったことを、一応知っておくことは、君の世界を広げ、君の引き出しを増やす。

 小説も同じだ。どんなことでも、ちょっと知っておくというのは悪いことじゃない。ちょっと知ったことがきっかけになって、がぜん興味が湧いて、それまで知らなかったその分野にどんどんのめりこんでいく、ということだってある。

 小説というのは本の一種だ。

 本はたくさんある。それくらい、誰でも知っている。

 けれども本には、あんまり人が知らない側面がある。知らないんじゃないかもしれない。そんな風に考えたことのある人が少ない、ってだけかもしれない。

 それは、この世にあるすべての本が、、、、、、、、、、、、すべての人のために書かれている、、、、、、、、、、、、、、、、という、驚くべき事実である。まさかと思うかもしれないが本当なのだ。

 それが証拠に、ちょっと実験をしてみよう。

 本棚の中にまだ読んでいない本はあるだろうか。なければ辞書はどうだろう。辞書もなければ図書館に行く。図書館の二番目の棚の一番上の、右から十五冊目を取り出してほしい。そこにはきっと君の知らない、興味もない本があるはずだ。医学の本かもしれないし、歴史の本かもしれない。絵本かマンガかもしれない。なんだって構わない。その本をランダムに開く。するとそこに、何かが書いてあるはずだ。

 それを君は読む。

「相続税を計算する際、財産は相続開始時の『時価』で評価するのが原則です」(はじめての相続・贈与ABC 日本相続新聞社)

「こうした静かな声、かすかな感情はわれわれの体の内部のどこから発せられるものなのであろうか?」(天使の事典 柏書房)

「年甲斐もなく若い者の中へ這入つて同じ様に、押出したのは大人気ねえが、生れついての喧嘩好き」(加賀鳶 岩波文庫)

 ……何いってんだかサッパリ判らん。でも本当は判らないわけじゃない。

 最初の文章に、財産は相続を開始した時にいくらだったか(=時価)で値段を決める(=評価する)ということが書いてあることは、判る。三番目の文章が、年寄りの人が若い人の中に飛びこんでいったのは、喧嘩が好きだからだ、という意味なのも判る。つまり、前後の脈絡が判らないというだけで、そこにあらわれた文章は読める。

 それを君は読んだ。決して出会うはずのなかった本の文章を読んだ。なぜか。僕が図書館に行けと命じたからではない。そこにどんな本があるのか僕は知らないし、君がどんな本を開いたかも知らないのだから。僕の指示はただのキッカケだ。読んだのは君である。

 問題は、なぜ君はそれを読めたのか、ということだ。答えはひとつしかない。そこにその本があったからだ。

 では、なぜそこにあったその本は、君に読まれたのか。これもまた僕の差し金とは大して関係がない。それは、君が読めるところにその本があったからだ。

 これが僕のいいたいことである。君が読めるところにある本なら、君は全部読むことができるのだ。そしてこの世にあるほとんどの本は、実は、君が読めるところにある。チベットの山奥にしかない本とか、百万円の本は別だけれど。

 ということは、この世にあるほとんどの本を、君は読むことができるわけだ。本というのはそういう風に作られているのである。君が読めるように作られているのが「本」なのである。そしてそれは、君ひとりが持っている特権ではない。誰にとっても「本」は、そのように、読まれるように、作られている。

 (ちなみに、外国語の本が読めないのは、「その外国語が読めない」だけで、その言葉が読めれば、読めるようになる。これはヘリクツじゃないよ!)

 もちろんこの世にあるすべての「本」を読むことは、誰にもできない。だけどすべての「本」を読んだって、全然かまわないのだ。というか「本」の方は、読まれることを待っている、、、、、、、、、、、、のである。じゃなきゃ読めるように書いてあるわけがない。

 君が読めばすべての本が読めるように、すべての人はすべての本を、読めば読める、、、、、、、、、、、、 、、、、、、のであり、本がそのように作られている以上、本とは、すべての人のために書かれているのは明らかなのである。

 そのような本の一種として、小説はある。

 本も数え切れないくらいたくさんあるが、小説もずいぶんたくさんある。

 小説って、いくつくらいあるのかなあ。本て、どれくらいあるのかなあ。

 そんなことを考えていると、僕は、むかし数学の先生が言っていた言葉を思い出す。

「無限の中には、無限が無限に含まれている」

 人間の数には限りがあるし、その中で小説を書いている人間はさらに限られているんだから、数学の無限とは比べ物にならないだろうけれど、でもなんか、そんな感じがしてしまうくらい、小説はいっぱいある。

 なんでいっぱいあるか。その理由の一つは、小説が消耗品だからだろう。少なくとも消耗品として扱われているからだろう。同じ小説を二度読む人は、ほとんどいない。たいていの小説は、一回読んだらそれでお役御免である。

 こう書くと、いやそんなことはないぞと思う人がきっと出てくるだろう。教科書に載っている小説を何度も読んだり、外国語の小説を理解できるまで、同じところを繰り返し読んだりした経験は、誰にでもあるから。

 しかしそれが極めて例外的な小説の読み方だということも、実はみんな知っている。教科書の小説を何度も読むのは、試験でいい点を取るためだし、外国語の小説を辞書を引きながら読むのは、外国語の習得のためであって、小説を読むというのとは、ちょっと趣きが違う。そしてそうやって何度も読む小説は、一作か、二作か、三作かと、数えられる程度のもので、一方では何十、何百という小説を、人は読み捨てている。

 犯人が判っちゃったら、大半の推理小説はそれでオシマイだ。ストーリーがわかったら、オチにビックリしたら、泣かされたら、それでもういいという小説もある。そこにあることを、一回吸収したらそれで充分。二回読んでも同じ感動を味わえるとは思えない。長い小説は読み切ると達成感と疲労感が残るから、とてもじゃないけどもう一度スタートからやりなおすなんてできない。……というように、小説を読んだら読み捨てにする理由は、いくらでもあるものだ。

 それは悪いことでも何でもない。飛行機に乗って本を開いて、ロサンゼルス空港に到着したら読み終わって空港のごみ箱にポイ。そんな本は無駄なようだが、無駄ではない(資源ごみのごみ箱に入れましょう)。それは空の旅という、ロマンチックに聞こえるけれど案外退屈な時間を楽しく潰してくれるという、れっきとした役目を果たしている。

 むしろそんな、軽くてスッキリ読める小説ばかり読んでいる人のほうが、世の中には多いのだろう。言葉の表現が難しかったり、内容が複雑だったり、深刻な問題を扱っている小説なんか、まっぴらごめんと思っている人たち。そういう人たちの中には、いわば判っていてその手の小説を避ける人もいる。小説というのは気楽なものこそ優れていて、難解な小説というのは「うまく書けていない小説」というのと同じだ、と考えている人だっている。

 それはひとつの見識である。実を言うと僕もじゃっかん、そっちの考えに傾いている。少なくとも軽く読める小説を、軽く読めるという理由で重厚な小説よりも下に見るのは間違っていると思う。

 なぜなら歴史的に、発表当時は読み捨て同然の作品と思われていたけれど、やがて評価が高まり、今では偉大な作品だとみなされている小説があるのだから。セルバンテスの『ドン・キホーテ』は、発表当時は単に愉快な面白小説と思われていたが、今では西洋文学の最も重要な作品のひとつとして研究されている。ジェームズ・M・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、あちこちの出版社に断られ続けた犯罪小説だが、今では極めて重要なアメリカ小説だと多くの評者が認めている。

 小説の基本は娯楽だと僕は思う。しかしだからと言って、難解だったり長大だったり複雑だったりする小説を、それだけで失敗作とは思わない(当たり前だ)。ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』やヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』、紫式部の『源氏物語』などは、いずれも難解で長大で複雑な小説だが、僕は(へこたれそうになりながらも)二度三度と読んで、その都度感銘を受けた。大学の文学部に行けば、これらの小説を生涯かけて読み続ける人だっている。それはこういった小説が、生涯をかけるだけの値打ちがあるからだ。

 しかし、なんでそんな小説があるんだろうな、と不思議に思うのは、自然な気持ちじゃないだろうか。テレビのない時代には長い小説が好まれた、という事情もあるだろうけれど、長くて面白いヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』やチャールズ・ディッケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』や曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』なんていうものもある。みんなそんな風に書けばいいじゃないか。なんでことさら複雑に、難解に書いてあるんだ。困るじゃないか。

 それは、小説というものが、いろんなことをできるからだ。さらさらと流れるように書くこともできるけれど、難解に書くこともできるのが小説なのだ。

 そして小説は、さらさら書いてもいいし、難解に書いてもいいのである。難解に書かれた小説は、読者のことを考えていないのではない。それどころか読者のために書かれているといえる。読者とは君のことであり、すべての人のことでもある。

 (ちなみに「読者のことを考えていない小説」はある。ただしそれは難解に書かれたものにだけじゃなく、さらさら書かれた小説にもある。しかも「読者のことを考えていない小説」を、すべてひっくるめて「ダメな小説」と言い切ることもできない。そこが小説というものの語りにくい、やっかいなところのひとつだ。一個の小説がダメかダメじゃないかは、結局、読者である僕たちが、その小説を前にしてどう感じるかにかかっている)

 それに、そうだ、さらさら読めてあっさり捨てられるような消耗品小説を小説のすべてと思っていれば、小のことなんか真面目に考える必要はないと思ってしまうのも無理はない。だが実際にはそうではない。(それに僕は「さらさら書く」と「さらさら読める」を混同してしまっていた。「さらさら書く」のは、決して簡単なことじゃない)小説にはいろんな側面があり、いろんな可能性がある。

 この本ではその、小説が持つ多様な側面と可能性の、代表的なものを取り上げていこうと思う。小説という文学ジャンルがどれだけ広大か、どれだけバラエティに富んでいるか、そしてどれだけ可能性を秘めているかを、ちょっとだけでも君に伝えられたら、この本は成功だ。小説もそう馬鹿にしたもんじゃない、あるいは、敬遠するのはもったいないと、君が思ってくれたら、僕は嬉しい。



『小説にできること』

10月10日頃発売!

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