重箱の隅から

第29回 あれやこれや②

 戦時下にも人々の暮しがあり、それは細かくささやかな物たちの記憶に満ちて悲しみや喜びと共に営まれていた、といった言説は、楊枝ほどの大きさの小さな金属製品であるヘアピンをキラリと輝かせるだろう。黒澤明の国策映画『一番美しく』(’44年)の中で、戦時下増産に挺身する勤労挺身隊の娘たちの頭部にかすかに光る小さなヘアピンの輝きを、アニメーション映画作家の鋭い眼は見逃さない。庶民のあたりまえの暮しとは、広島の戦時下の生活を見事に再現してみせたアニメーション作家的には「工場で働く女性たちが、金属供出があった時期でも、きちんとヘアピンをしているんですよ」と、映像からの小さな、しかし、キラリと輝いて見えたのであろう「モノ」の発見の貴重さにあふれたものだろうが、その驚きには金属の供出がどのような規模で行われたかという事実に対する認識があまりに欠けているので、体験者たちからの話を通して少しは知っている者として軽く苛立つのだ。そんな物まで供出はしなかった。
 この若い娘の頭部のささやかなヘアピンという細部の発見が、いくらか自慢でもあるらしい発言を読んでいてなぜか思い出したのが、中村光夫の『文学回想 憂しと見し世』の戦時下のエピソードの一つである。
 昭和19年イタリア降伏後の6月、連合軍のノルマンディー上陸作戦が行われたことを伝える報道が新聞に載った日、筑摩書房の編集者であった中村は仕事で志賀直哉を訪問する。志賀は「初対面の挨拶もそこそこに、敵軍が大作戦に成功した日に、日本の内閣総理大臣は街の芥箱を検査してまわっている、他にすることがないのかね、と憤激の面持ち」で語る。「実際、その日の新聞の別の面にはそういう東条首相の「美談」が出てい」て、「美談」とは、戦時下の首相がごみ箱の中味という細部を検査することによって庶民の暮しぶりを「モノ」、それも捨てられたものから知ろうとする、愚かしい行いのことであり、私の世代の者ならば小学生の頃に読んだことがあるかもしれない山本有三編の『心に太陽を持て』というタイトルの本に集められた、様々な時代の様々な国の雑多な人格形成の上でためになる道徳的なエピソードを集めた本を思い出すかもしれない。そこには、プロイセンの英明名高いフリードリッヒ大王(藤城清治の影絵による大王のイラストを覚えている)があけ方の街に出て、ひっそりと庶民のゴミ箱を見てその暮しぶりの状態を調べたというエピソードが載っていて、たしか、もしゴミの分量が多ければ、それは暮しの経済的豊かさを示している、とかいった内容なのだった。
 東条の「美談」を伝える新聞記事には、「芥箱」の何を「検査してまわっ」たという事が書かれていたかどうかまでは中村は記していないが、「検査」という「検閲」と一字違いの強権的な言葉があえて使用されていることによって、実態を知らない私たちにも、それが生活の上での耐え難い無理を押しつけただけではなく、まだ庶民たちが無駄を出して、不要な贅沢をしているのではないかとみみっちい小心者的な監視を首相自らが行ったということだろう。それも、『史上最大の作戦』と映画のタイトルは翻訳されている“The Longest Day”であるD・DAYに、と書きながら、しかし、東条としてはプロイセンの啓蒙専制君主フリードリッヒ大王を気取ったのかもしれない、という考えが浮かんだのは、志賀の心づかいの繊細さを賛美する藤枝静男のエッセイの中で、志賀が家族主義的な孤島冒険小説を好きだったらしいことを知ったせいもあるうえに、『心に太陽を持て』と『スイスのロビンソン』を同じ時期に読んだという不確かな記憶のせいにすぎないのかもしれない。どっちにしても父権的な世界観の中でのはなしである。
 ところで、今年の夏の新潮社の文庫の新聞広告は「この夏、最大の事件‼」と構えて、赤、黄、黒(白抜きもあるので2色)、ブルーの5色を大胆という程ではないがどこかの国の旗を連想させる色彩のデザインの、ガルシア=マルケス『百年の孤独』である。去年は「夏だ! ビールだ! Tシャツだ!」「安くてイージーで、ちょっとワルの気分も味わえる。奥深きTシャツの世界へようこそ!」というコピーで、エンタメ小説を大きく扱った売り方だったのが、なぜ「世界文学の最高峰、待望の文庫化」という「この夏、最大の事件‼」に変わったのかなどということは、むろんどうでもいいことなのだが、こうした広告とは別に、2、3のメディアの片隅に書評系ライターの書いた紹介文の中で、『百年の孤独』が「文庫化されたら世界が滅びる」という、いかにも頭の悪そうなというか本をあまり読んだことのない者が発想したのだろう「都市伝説」が、かつてあったということを初めて知って呆れたのだった。
 ’72年に新潮社から上梓されて52年、初めて目にした言葉である。当時、現役の純文学作家で、マルケスを読んだ者も読まなかった者も、ほとんどは生きていないのだが、大江健三郎とか中上健次に、知っていたかと聞いてみたかったものである。この都市伝説は、出版当初に出来たのではなく、「世界が滅びる」という言い方から翌年の『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになって以降に出来たと思われるのだが、これと同じ頃、出版業界の一部に、新潮社が倒産することがあったら、それは朝日新聞社と日本も駄目になる時だ、というノーテンキな言い方があって、その根拠のない自信ぶりにシラケたものだった。それから何年もしないで、K書房の若い編集者は、朝、眼がさめて新聞を開くとK社の「G像」が休刊になるという記事が載っていた、という夢を見たのだったが、それはそれとして、日本で愚かしい都市伝説まで生み出したラテン・アメリカの名作について『新潮社100年』はどう触れているか調べてみると、『百年の孤独』についての記述はなぜかないのだ。文庫については、「一部にコンピューターシステムによる組版方式の導入」が行われ、文庫の全収録作品に表紙カバーが巻かれる頃になる。「文庫の伸び率が大きく、逆に週刊誌・中間小説誌などは横ばいから部数が低下する」のである。
 さて、祥伝社の大ベストセラー『ノストラダムスの大予言』的言説としての都市伝説では「文庫化されると世界が滅びる」と言われた『百年の孤独』は『新潮社100年』にはその名が載っていないが、’74年に刊行されたミシェル・フーコーの『言葉と物』にはじまり『性の歴史』にいたる翻訳の刊行も『新潮社100年』に載っていないのは、不思議と言えば不思議だが、知的財産と言えば言えそうな名作の翻訳の文庫化が、今、果たしてささやかでも財産になり得るのかどうか。
 マルケスの小説刊行の書物の形態を巡って存在したというノストラダムス的伝説は知らなかったが、当時、ラテン・アメリカ文学は、かつて19世紀のロシア文学が既存の欧米文学を活性化させたのに等しいエネルギーがある、といった言説があって、大流行とまでは言わないが世界文学の傾向として文学の世界は、ささやかながらにぎわいもしたのだった。
 それはそれとして、滑稽でさえなく、唯、グロな自民党総裁選挙の、昔風にいえば、マンガチックな図柄のグロテスクなゾンビ風ポスターを、そこに載っている顔が男性ばかりで、家父長制の時代錯誤だと批判する読まなくても内容のほぼわかるといった類の記事(東京新聞’24年8月27日「こちら特報部」)には、自民党の広報本部長は「戦後一貫して日本の政治を牽引してきた歴史と実績」が込められていると自讃するのだが、宮崎県の元知事は北野武監督の『アウトレイジ』のポスター(実録物やくざ映画の廃墟然としたタケシ映画である)に似ていると言い、日大の社会学教授は「往年のプロレス興行、格闘技イベントの広報物を彷彿させる」と言い、ジェンダー表象の女性研究者は「エンターテインメント化、劇場型にすることがかっこいいという姿勢が見え、ばかにされた気持ちだ」と厳しく批判する(と記者は書く)のだが、社会学者と元知事は、格闘技ポスターにくわしいらしく「意匠としてはよく練られている」と、感心する。しかし、あのポスターが意匠として「よく練られている」とは思えないのである。
 だいたい、若い有権者にあのポスターの顔と名前がどれだけ知られているか考えてみるといい。それに、『アウトレイジ』風でありプロレス風でもあるというデザインを今頃使うという回顧的パロディは、人をばかにしているというより作る側が単にバカだという印象しか与えないし、決まりきった階層にしかアピールすることもないだろう。
 立憲民主党の代表選挙についても、候補者が男性中心であることについて問題視されるのだったが、それで思い出したのが、「改元記念スペシャル企画 昭和最後の日、あなたは何をしていましたか?」という特集を組んでいた’19年の『文學界』6月号である。あまりの変さに切り抜いておいたのだ。「令和来て昭和は遠くなりにけり?」というコピーが付いているのだが、本文ページを開けば「昭和最後の日、あなたは何をしていましたか?」というタイトルの下に、生垣らしき植物をバックに晩年に近い昭和天皇のスナップ風の写真が、手札判印画紙を少し大きくしたか、キャビネ判を小さくしたようなサイズで載っていて、「豪華筆者が「昭和64年1月7日」を描く」というキャプションが入っているのだが、すべて男性である13人の書き手たちは一人を除いて見事にあたえられた「昭和64年1月7日」という日付に拘束されるのだ。その日の、自分の行動や何かを思い出さなければならない、といったように。と書きながら、ところで目次にも特集ページの扉にも「令和来て昭和は遠くなりにけり?」とあるけれど、令和の前、昭和の次の元号は何といったのか、咄嗟に思い出せない。認知症の検査には、今日が何年何月何日かという質問があるそうだから、これはまずいのではないか、いやヤバイのでは、と手近にある刊行物の奥付を見るのだが、元号抜きの西暦のみ、西暦プラス昭和と令和があるのみなのだ。