痛快! 痛快! 痛快!
学問についての本でありながら、どんな大どんでん返しのミステリー小説よりも痛快である。小説はどんなに緻密な伏線だとしても、小説の中にしか、ひっくり返せる対象を持つことは出来ないが、この本がひっくり返すのは、我々の常識と現実。当たり前だと思っている「教育」「格差」「死」「自然」……! これ以上大きなひっくり返す対象はない。これが、痛快でないわけがないのだ! 人類学者・奥野克巳先生による大逆転ホームランを、とくとご覧頂きたい。
「このまままっすぐ進んだ先にはいいことあんまりなさそうだぞ」というのは、何よりもいま共有されている感覚ではないだろうか。方向転換の必要性を、私たちは腹で分かっている。私たちが先祖から連綿と受け継いできた身体が、言葉にならない知恵を蓄えているからそう感じるのだと思う。ただ「でもしょうがないよね」と、半ば諦めている我々に、「いや、そもそもその問題自体、受け入れるかどうか選べるんじゃないですか?」と持ちかけてくるファンキーな学問が、人類学だ。「そんなことあるわけない、できるわけないじゃないですか」というマジメな人に対して、人類学は「いるんだからしょうがない」と強烈な証拠を突きつけてくる。
例えば、現代日本に住む我々の中には、心の病を得てしまう人は少なくないし、それと繋がる鬱々とした気分を抱えている人も少なくないだろう。そこで登場するのが、プナンである。本書の中で最も豊富に、我々とは違う生き方の実例を提供してくれている彼らは、奥野先生がフィールドワークの対象にし続けているボルネオ島の森の民。奥野先生が一九年間研究を続けている中で、心の病を抱えているプナンに出会ったことがない上に、プナン語には心の病を示す言葉がないという。これは、夢想で作られたフィクションではない。そんな人類が地球上に実在するんだ、と知ることは、鬱々とした気分は仕方ないものだという我々の価値観を大いにぐらつかせる。
他にも、学校の価値をまったく感じていないどころか、教える、という概念自体が存在しなかったり、貧富の差や権力を生じさせない仕組みが実在したり、死者を悼むことが避けられていたり、動物どころか川や山に人格があると認識していることだったり、という驚愕すべき実例が次々と繰り出される。これらが全部、ユートピアを妄想した話としてではなく、同じ地球上に存在する他の人類の話なのだ。本を読むことの醍醐味は、読んでしまった後は以前と同じ自分ではいられないことにあるだろう。私は、奥野先生の旧著に大きな影響を受け、予防接種を九本打って、奥野先生についてプナンに会ってきた。その体験以降一年半、私は一度も、落ち込んでいない。
私は奥野先生の生徒や弟子になりたいぐらいなのだが、まさに本書の指摘するとおり、教える者、教えられる者、という関係は、人類学にはなじまない。勝手に私淑するしかないので、一人の奥野ウォッチャーとなっているのだが、本書には、奥野先生のある一面が色濃く表れている。プナン以前に先生が研究していたボルネオ島の農耕民カリスが登場する部分である。思わず卑猥な言葉を口走ってしまうことによって村に爆笑をもたらす一種の心の病「唇のあやまち」についての記述があるのだが、この部分が明らかにいきいきとしているのだ。読者としてもニヤニヤすることを抑えられない部分だが、ここを書きたかったのだ、という奥野先生の気持ちが伝わってきて、ああ、逆転ホームランをかっ飛ばすには、眉根を寄せて深刻な顔をするよりも、機嫌よく、飄々とそこにいることこそが必要なんだな、と気づかされるのである。
なお、二〇二四年八月から、奥野先生とポッドキャストを始めた。下ネタに相好を崩す奥野先生の様子を、お聞きいただければ幸いである。
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