紙子と学校

都心の一等地にあり、帝に仕えるための特殊技芸者を養成する中高一貫の女子校・玉笛女子学園。中等部に入学し寮で同室となった紙子と陽子は、不思議な先輩や先生たちとの交流を通じて成長していく。気鋭の詩人による和風学園ファンタジー、ここに開幕!(カット:鯨庭)

 朱彦の肩に当たった木の枝が跳ね上がり、紙子の瞳をあやうくかすめた。
 道らしきものは、とっくに外れている。人や獣の都合に構わず、縦横無尽に生える植物の中を歩きながら、紙子は傘をさして歩きたくなった。しかし、傘を広げていては、龍脈を通り抜けることはできないだろう。通り抜けられる隙間を、身体で探っていかなければならないのだ。前では朱彦が進む方角を指し示し、窟穴彦が網状に張った蔓を破って進んでいく。弾力の強い枝を、繭彦が支えている間に、紙子が通り抜ける。その後ろを、山猫がすり抜けていく。蜘蛛の巣が張り付いた感触があり、手のひらで何度も顔をこする。髪の毛には細かい枝や葉の欠片が絡まり、途中までは手ですきながら落としていたが、もうそのままにするしかなかった。
 朱彦の説明によれば、「龍穴」はひと所に止まることはなく、刻一刻と移動している。龍穴に辿り着くには、蛇の身体を辿りながら肛門を見つけるように、「龍脈」とよばれる道の上を寸分も違わずに歩いて行かなければならないという。朱彦が差し出す、糸先に三角柱の石がついた振り子は、龍脈の位置を垂直に示す。違った方向に進もうとすると、まるで磁力にでも引かれているかのように、振り子は大きく揺れるのだった。
 やがて、通せんぼをするように曲がった太い幹が前を遮った。窟穴彦が朱彦の前に出て、左腰に差した鞘から軍刀を引き抜き、一息で枝を叩き斬った。巨魚の胴を鉈で断つのに似た、重く湿った音が鳴り渡り、断面から青い汁が噴き出した。窟穴彦は袖で顔をぬぐい、朱彦は深くかぶっていた学生帽を地面に向けて振るった。そうして、二人は嬉しそうに笑い合っている。
 二人の後方にいた紙子の頬も、濡れたような感触があった。指先で触れると、顔の表面をどこまでも冷たく伸びていく。指をはなすと、粘りついている。闇の中で、手を広げた。青臭さよりも鉄臭い、強い土のにおいがした。
「龍穴」と呼ぶからには、龍脈の果てに突如大きな穴が現れて、そこに飛び込んでいくのだと思った。朱彦のあとについて歩き始めてから、まだ一時間も経っていないのに、妙に足がだるい。龍脈はおそらく、なだらかな下り坂になっている。気付かぬうちに、浅い階段を降りていくように、すでに一行は龍穴の中へと入っていっているのだろう。宮中の木々のほとんどは、百年前から計画的に植樹された人工樹林で、樹林師たちが現在も管理していることもあり、手入れの良く行き届いた長い黒髪を見ているようでもある。しかしこの龍脈にある木々は、まさに「生えるにまかせた」景色である。鉄の生臭さが漂うこの地は、山姥の体毛を思わせた。
 やがて森を抜けた。毛の生え際に似た草むらを歩いた先に、白い岩盤が左右を覆う道が現れた。岩盤の上を巨大な匙で深く削りとり、その匙の軌跡を歩いているようである。白という色自体が輝いて見える。このような静まり返った闇の中にいなければ、風光明媚な場所であるとも思う。こうした野趣に富んだ景色は、旅慣れない紙子にとっては物珍しかった。先ほどまでの、道なき道を進むような険しい足元でもなく、視線をあちらこちらに彷徨わせていると、急に足がとられた。その場に尻餅をつかずに済んだのは、繭彦が紙子の背中を掴みあげたからだった。
「水に近い場所は、粉のような塵が落ちていて滑りやすい。雪道を歩いているようなものだから、気を抜くな」
 繭彦から淡々と諭され、紙子は悄然とした。年齢もさほど離れていない男の、素っ気ない物言いに慣れていない。美津子や陽子なら、まずは紙子の身を労わる言葉をかけてくれるだろう。なかば茫然としながら歩いていると、それほど遠くない場所から、滝水が流れ落ちる甲高い音が鳴っていることに気づいた。
 道を曲がった先に、白糸の滝があった。その水溜まりに平らかな地面があり、一行はその場所に腰を下ろすことにした。
 膝を曲げた瞬間に、腿に力が入らなくなって、紙子は今度こそ尻餅をついた。「足が棒になる」というのは、膝を曲げてしまうと折れて立てなくなる、という意味を暗に含んでいるのかもしれない。両腕を後ろに伸ばし、倒れ伏せないようにかろうじて体を支えていると、背中の方で、強い圧力を感じた。山猫が、紙子の制服で毛並みを整えていた。ただでさえ砂埃まみれだった瑠璃色の制服が、背中の部分だけ真っ白になった。
 朱彦が身に纏っていたマント型の外套を地面に落とすと、何やら重たげな音がした。立ち上がって背伸びをしてから、外套の隠しにある品物を、一つ一つ手で触れて確認している。窟穴彦は一分と座らないうちに、準備体操のような動きをして、滝壺の水面に手を差し入れ、ざぶざぶと頭に水をかけながら顔と首元を擦っている。その爽やかな音を聞いているうちに、紙子はごくりと喉を鳴らした。玉櫛寮を出てから、何も口に入れておらず、喉は乾き切っていた。立ち上がって、滝壺の方へ歩いて行こうとしたところで、急に横から差し出された腕があった。朱彦が、紙子に水を汲んできたのだ。
 くすんだ銀色のお椀の中には、なみなみと水が注がれている。
 いつまでも椀を受け取らない紙子を見て、朱彦が声をかけた。
「これを飲みなさい」
 紙子は朱彦の顔と水を交互に見てから、視線を滝の方に向けた。
「あそこから水を飲むから。それは」
 朱彦をなんと呼べばいいか分からず、紙子はそこで言葉を切って、ただ首を横に振った。朱彦は眼の端を尖らせた。
「滝水なんて飲んだら、食中毒になるぞ。窟穴彦は断水の稽古中に、転んだふりをして、普段から泥水をすすっている奴だ」
「でも、飲みたくないの」
 紙子が俯いていると、朱彦は首を傾げた。
「新鮮な湧き水は、飴みたいなにおいがする。甘いぞ。嗅いでみろよ」
 素直に鼻を近づけた瞬間に、水に心を引き込まれたような感覚があった。気がつくと、お椀を受け取っていた。朱彦の言う通り、綿飴に似た香りが顔の前でひろがる。冷たい空気をそのまま喉に流し入れるような、本当に美味い水だった。

 

 痺れた心がくすぐられたような感覚に、思わず笑い声が口元から漏れた。朱彦は、まるで観察するような目で紙子を眺めていて、紙子はすぐに笑みをしまい込んだ。
「龍穴まで、あとどれくらい歩くの?」
「最初の水辺に辿り着いたから、龍脈の半分は過ぎたな。もう、星空が遠くなった」
 見上げると、夜空に散らばる星屑が、いまは靄(もや)のように見えるのだった。

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