ちくま文庫

よろける
『スバらしきバス』ためし読み特別公開

バスエッセイの傑作『スバらしきバス』(ちくま文庫、2024年10月発売)の1篇「よろける」を特別公開! バスでよろけてしまうのは仕方がないことですが、しかし……。おかしくて、哀しいドラマをぜひお読みください。

 電車と違って路線バスには網棚がない。あれば便利だと思うけど、構造的に無理なのだろうか。それともコストの問題だろうか。重たい荷物を抱えてバスに乗り込み、車内が超満員だった日には運転席を乗っ取りたくなる。
 それほど荷物はないにしても、バスの中で立っているのは苦痛だ。バスは立つ人のことを考えて造られてはいないように思う。バス停や赤信号のたびにバスは停まる。停まったと思ったらすぐまた走り出す。停車したり発車したりするたびに乗客はもてあそばれて左右によろける。
 座席に座っている人のからだが進行方向を向いているのに対し、立つ人のからだは横向きになる。この態勢がくせ者だ。両足でしっかり踏ん張っていてもバランスを崩しやすい。電車で立つよりバスで立つほうが難しい。
 でも、よろけることにも利点はある。バスが動き出した拍子に男がよろけて、隣に立っていた女性のサンダルの足を踏む。「うう。ううう」「すみません。大丈夫ですか」「大丈夫なわけないでしょう。ほら、見なさい。血が出てきた」「わっ。すぐ病院へいきましょう」、そこからロマンスに発展し、トントン拍子に結婚することだってあるだろう。新婚旅行はもちろんバス旅行、子どもが生まれたら名前はバス太郎にバス美、お風呂に入れるのはバスクリンだ。
 座っているとドラマは起きないかというと、そんなことはない。
 先日、近所のバス停から渋谷いきの京王バスに乗った。車内はかなり混んでいた。五人掛けの後部座席は、窓側の席はふさがっていたが、ほかの三つはあいていた。わたしは左から二番目の席に腰掛けた。少し先のバス停で気取った兄ちゃんが乗ってきた。黒い半袖のTシャツに黒い革のパンツ、髪は薄茶に染めている。顔や腕は日焼けサロンから出てきたばかりのようにこんがり焼けている。腰で金属がジャラジャラ鳴っている。真夏なのに足元はブーツだ。
 気取ったまま吊り革を握って立っていればいいのに、兄ちゃんは後部座席めがけて突進してきた。何となく不吉な予感がした。「こっちくんな」とこころの中で叫んだが、黒ずくめの兄ちゃんの黒いこころには届かない。どんどん近づいてくる黒ずくめ。
 「発車しまーす」
 兄ちゃんがからだの向きを変えて腰をおろそうとした途端、バスは走り出した。「ひょわっ」という奇妙な声とともに兄ちゃんはくるりと回転し、わたしの上にのしかかってきた。
 申し遅れましたが、兄ちゃんのからだはふくよかです。全身にたっぷりお肉がついています。体型をごまかすために全身黒ずくめなのかもしれません。でも、何色ずくめでも体重に変化はありません。推定体重百三キロの巨体にのしかかられて、苦しくて息が詰まりそうでした。
 「どけ」とこころの中で叫びましたが、兄ちゃんはどいてくれません。わたしのからだに未練があるのでしょうか。手足をばたばたさせてもがくだけです。わたしは両腕を突っ張って、兄ちゃんのからだを押しのけました。
 兄ちゃんは座席に落ち着くと、ふうとため息をつきました。それからわたしを見て「ども」といいました。何が「ども」だよ。「ども」で終わりかよ。わたしは返事をしませんでした。こんなドラマならないほうがいいですね。
 これがきっかけで、わたしは遠い昔の出来事を思い出した。中学二年のクリスマスの日、わたしは母とデパートにいってクリスマスの買い物をした。帰りはバスの後部座席に並んで座った。それほど混んでなかったし、荷物がたくさんあったので、クリスマスケーキの箱は母の隣の空席に置いた。
 そのあとに起きたことは、黒ずくめの兄ちゃんのときとほとんど同じだ。ただし相手は若い男ではなく、黒いセーターを着た中年の男だった。ケーキの隣に座ろうとした男は、よろけてケーキの上に尻餅をついた。あっと思ったが、何もいえなかった。母も凍り付いたように黙っている。おじさんは知らん顔でケーキの隣にからだを移し、窓の外の景色を眺めている。
 箱の中を想像したくはなかったが、ぐしゃぐしゃになったケーキの無惨な姿が振り払っても振り払っても浮かんできた。その日父は仕事で家にいなかったから、妹と母とわたしの三人のクリスマスだった。チキンローストを食べたあと母がケーキの箱をテーブルに置いた。わたしは恐くてふたを開けられなかった。何も知らない妹が無邪気な顔でふたを取った。
 「え。何これ。どうしたん?」
 母もわたしも答えなかった。果物はつぶれ、土台はゆがみ、土砂崩れの現場のようだった。
 あまりに悲しいそのときの記憶をわたしは長いあいだ封印してきた。なのに黒ずくめの兄ちゃんのせいで、ありありと思い出してしまった。もしかするとこの兄ちゃんはケーキを台なしにした中年男の子孫なのか。わたしを不幸にするために、この一族はひょっこり現れるのか。悔しい。ケーキを返してくれ。利子をつけて五段重ねの五重の塔みたいなケーキを。いや、バスがいい。バスの形のケーキを今ここで作ってほしい。窓もドアもあり、運転手も乗客もいるケーキ。「ども」ですませる兄ちゃんとわたしが後部座席にいるケーキ。そんな夢のようなケーキをぜひ。

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平田 俊子

スバらしきバス (ちくま文庫ひ-33-1)

筑摩書房

¥924

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