画材屋にいったら、大きいのに描きたくなって。120号。二万四千円もしたんです。学生の女の子はいう。横幅は二メートルちかく。狭い地下への階段を、引っ越し屋さんのように二人がかりでおろしてきた。余計なことをぼくはおもう。値段もたしかにすごいけど、持ち帰ってどこに置いておくのだろう。東京の一人暮らし、きっと広くない部屋だ。そもそもこんな大きなものを、電車でよくここまで運んだね。
JR大久保駅すぐの地下に、ひかりのうまはある。大久保駅のあたりは多国籍の地区。音楽と珈琲の店ひかりのうまは、アングラという言葉が似合うライブハウスだ。そこで、詩人の四元さんはpoetry talks liveというシリーズを続けている。一ヶ月に一回。いや、ドイツに自宅のある四元さんが、むこうへ戻るあいだは開かれないから、二ヶ月に一回ほどか。はじまってもう三年くらいになる。ぼくは第一回目のゲストだった。ところが四元さんは誘い上手、二回目には、ぼくもレギュラーメンバーの一人になっていた。
毎回ゲストがくる。それが本公演。本公演の終盤ぼくは詩を読む。その後は、お客さんのオープンマイクの時間。本公演ではないけれど、そちらもまた本番という感じ。四元さんは三つの大学で詩を教えている。だから学生や、詩人や、翻訳家、あるいは居合わせた人が、マイクの前でなにかをはじめる。なにをするにも自由だから、ふしぎなことがおこる。ポケットからスマホを取り出し、昨日書いた詩なんです。そうやって読み始めるすがたもめずらしくない。ぼくは、それまで声になった詩を聞くのがとくいではなかった。でも書いたことを人前ですこし読む。しぜんなことだ。ふつうに聞くのでよいと知った。
でね、今回は、油絵具をつかいたいって。だいじょうぶかな。オープンマイクの時間にアクションペインティングをやりたいという学生がいるのだ。お客さんの来る前、まだ関係者しかいない時間に、四元さんは店主にたずねる。四元さんは学生のすなおな意志を実現させてあげたい。原状復帰できるんなら。答えるのは店主のマルタさん。彼はミュージシャンでもある。ただお店を汚されてはやはり困る。だから強調する。どこでもそうだと思います。原状復帰です。
120号の巨大なキャンバスとその学生が店内に降りてきた。四元さんが声をかける。すこし心配そうに。現状復帰だからね。
やがて本公演は終わり、夜の深い時間。彼女は、ブルーシートを敷いて、録音していた詩を流す。そしてペインティングにとりかかる。きっとペインティングをふくめた表現が彼女にとっての詩なのだ。彼女が今日描けるのは、さわりだけ。完成はもっともっとさきだ。あるいは完成なんてないのかもしれない。
ありがとうございました、の後、大きなキャンバスの裏から違う学生が顔を上気させながらのぞかせた。女の子がもうひとり、ペインティングの最中、重たいキャンバスをひとりで背後から支えていたのだ。文字どおり裏方だから、ともだちの描く姿は見えない。だけどともだちの力になれる。それが誇らしいんです。
終わったら、つぎのひとの番。オープンマイクはそうやって回る。でもその二人は終わってもキャンバスの大きさにてこずっている。こうするといいよ。見かねてマルタさんが立ち上がる。手際よくドラムセットを移動させる。絵をみんなからよく見えるステージ奥に立てかける。
絵は、夜の一間のよい背景になった。