富野由悠季論

〈15〉科学技術を通じて「世界」に触れる――『イデオン』で獲得したテーマ

富野由悠季とはどんなアニメーション監督か。「演出の技」と「戯作者としての姿勢」の2つの切り口から迫る徹底評論! 書籍化にさきがけて本論の一部を連載します。 富野監督作に通底するテーマとはなにかを探るシリーズ「『イデオン』で獲得したテーマ」、最終回です。(バナーデザイン:山田和寛(nipponia))

劇場版『THE IDEON 接触篇』で変わったこと

 先述の通り『イデオン』は軸となる主人公を欠いた作品であった。そのため『発動篇』に必要な情報を説明する『接触篇』は、かなりまとまりを欠いた内容となった。構成としては、カララがソロシップクルーに受け入れられていく過程を縦軸にして、彼女の立ち位置が変化するエピソードを配置することで流れを作っている。ただしカララを主人公として構成しているわけではなく、あくまで関連のエピソードをストーリーを整理するために使っただけだ。

 終盤、月面近くで繰り広げられる戦闘シーンを描くにあたり、テレビでそこを描いた第27話、第29話に加え、まったく舞台の異なる第32話を組み合わせて再構成しているあたりなどに、富野の再編集の巧みさをうかがうことはできる。ただ、全体として観客の心情を盛り上げたり、キャラクターの人生を立体的に示すような作りにはなっていない。

 『接触篇』では、第25話「逆襲のイデオン」でコスモが負傷し、カララの輸血を受けるというエピソードをアレンジし、終盤近くで扱った。これは第一にバッフ・クランと地球人が決して遠い存在ではないということを示すエピソードで、この点はテレビのときと意味合いは変わらない。『接触篇』ではそこに、コスモが夢の中でイデと対話するシーンが新規映像として組み合わされている。これはもともと第34話「流星おちる果て」で病床のベスが夢でイデと対話したときの内容を、コスモに置きかえて描いたものだ。これは当然ながら、コスモを主人公として認識してもらうためのアレンジでもある。ただコスモとイデの会話は、ベスとのものと大きく異なっている。

 第34話でイデは、意思の集合体であることを語り、ベスが投げかける疑問に一部答えたりもする。しかし『接触篇』は異なる。

 イデ「我自らを守り生かすために、新たなる力を」

 コスモ「そのために俺たちを戦わせるのか」

 イデ「新たなる力のために、我は汝らに」

 コスモ「自分で示せ。自分でしなければ生き延びられるものか。」

 イデ「我は幾億幾百の意思の集合体たる」

 コスモ「俺たちは生贄じゃないんだ!」

 イデとコスモの対話はベスのとき以上に噛み合わないものになっている。特にこちらでは、イデが同じような言葉を繰り返すことによって、イデが人格を持っている印象がより薄くなっている。富野はアニメ雑誌の「イデとはなんですか」という質問に対し、「所詮イデはイデでしかなくて、一口にいいますと〈知的生物の認識力の集中した場〉だと思ってください」と語っている(※1)。『接触篇』の対話は、そうした‟場”としてのイデを強調した会話になっているのである。

 このコスモとイデの対話の後、月面での戦闘を挟んで、ソロシップのメンバーによる「イデとはなんなのか」という議論が描かれる。ここで「イデはイデオンなどを開発した第六文明人の意思の集合であること」「パイパー・ルウのような純粋な防衛本能に反応すること」ということが確認され、「イデは、自らの存在を守るために他者を滅ぼすこともありうる」ことが示唆される。そしてシェリルが、自分たちはイデに取り込まれている、とつぶやく。テレビシリーズでは、徐々に匂わせていた「イデの手のひらの上にいる」という意識を、夢の中のコスモの「生贄じゃない」という台詞と併せて、『接触篇』のラスト間際で駆け足ながら一気に表面化させるのである。
 

ドバの業――『発動篇』で描かれたもの

 そして、この「イデの手のひらの上」で、「そう生きるしかなかった人々」の‟業”の物語が繰り広げられるのが『発動篇』である。

 『発動篇』は、ライナーノートと異なるところもあるが、バッフ・クランの執拗な攻撃と、それに応戦するイデオンとソロシップの戦闘が、どんどんエスカレートしていき、大勢の人の命があっけなく失われていく姿を描くという点では目指すところは変わっていない。

 最後の決戦の中、‟業”に言及するのがバッフ・クランの総司令官、ドバである。それまで物語の展開の中心にいたソロシップのクルーではなく、敵軍の総司令官が終盤になってドラマを担う中心的な人物となるのは興味深い。ドバは、イデオン、ソロシップとの総力戦を戦いながら、イデという存在を理解する。

「知的生物がなければイデは存在し得ないのに、何故殺し合いをさせるのか、分かったような気がする。知的生物に不足しているのは、己の業を乗り越えられんことだ。欲、憎しみ、知恵のこだわり……そんなものを引きずった生命体がもとでは、イデは善き力を発動せぬ。となれば、自ら善き力の源たる知的生物を作るしかないと……」

 さらにイデオンが、乗艦であるバイラル・ジンに迫る間際にも、停戦を迫る士官に対してこう言う。

「巨人(引用者注:イデオン)は、まっすぐにこのブリッジに向かっている。そのわけがわかるか。バッフ・クランとしての業を持った男が、この私だからだ」

 どうして終盤にきてドバがクローズアップされたのか。それは娘のカララがソロ星に降り立ち、地球人のベスと惹かれ合ったということがすべての始まりだからだ。それによってドバの中には「無限力イデを地球人が手に入れてしまうかもしれない恐怖」という政治のレベルと、「娘を異星人に奪われたという怒り」という個人のレベルの屈託が重なり合って存在することになったのだ。

 ソロシップのクルーは、もともとイデを求めて主体的な行動をしていたわけではない。偶然にも遺跡を発見し、その直後の不幸なファーストコンタクトにより家族やソロ星を失ったのである。その点で、ソロシップのクルーは受け身で、そこにある‟業”は、「生き延びるためにバッフ・クランと戦うしかない」というシンプルなものだ。これに対しドバのほうがコスモやベスよりもはるかに、自分のアイデンティティと今回の出来事が深いところで結びついている。ストーリーの落着点が「ソロシップ側の傲慢」から「そのようにしか生きられない」という‟業”の物語へとシフトした段階で、ドバが要になるのは、必然だったといえる。
 

父として、指揮官として

 『発動篇』の白眉は、ドバと長女ハルルの対話シーンだ。カララの姉であるハルルはソロシップに潜入しカララを射殺。旗艦バイラル・ジンに戻ったハルルは、ドバとふたりきりで対話をする。

 ドバに、ソロシップへの恐れと憎しみを薄れさせてはいけないと告げるハルル。ドバはそれに対し、自分はあくまで正義という大義名分で戦っている、と答える。それに対してハルルは「カララが異星人の子を宿していた……と、聞いた時もでしょうか?」と問い詰める。

「あの子はこの事件の元凶であったにもかかわらず、抜け抜けと子供を宿し、銃を向けた私に向かって子を産むと言ったのですよ。アジバ家の血の繫がりを持った女が、異星人の男と繫がって子を産む……許せることでしょうか? ですから私はあの子を撃ちました。即死でした! 私は妹を殺してきたのです、父上!」

 このハルルの発言に対し、ドバはよくやったと褒める。「これで、アジバ家の血を汚さずにすむ。即死させたのは肉親の情けというもの」と、家ひいてはバッフ・クランという国家・民族の立場から公の言葉で返す。

 これに対し、ハルルは自分が殺したのは、そんな‟公”の論理ではないと告げる。かつての恋人の遺言すら受け取れなかった自分に対し、愛した人間の子供を妊娠したという妹が憎かったのだ、と。つまり自分の心の底には幸福なカララに対する嫉妬があったのだ、と告白している。

 ハルルは、どうしてこんな心情を吐露したのか。それは父に甘えたかったからではないか。もともとハルルは傑物といわれ、隙のない人物である。彼女の数少ない弱みが、かつての恋人ダラム・ズバに今も思いを残しているところである。しかしそのダラムも死んでしまった。自分の弱音を言えるのはもはや父ぐらいしかいないのである。

 しかしドバは、この長女ハルルに優しい言葉をかけることはない。だからハルルはすぐにいつもの様子に戻り、「ロゴ・ダウの異星人すべてへの復讐は、果たさせてください。そのために軍の指揮はとります」と軍人らしく宣言する。ドバも「おう、とってもらおう! 私はお前を女として育てた覚えはない!」と応じる。だから、ハルルにできるのは、ドバが退室した後で「助けて、ダラム……」と死んだ元恋人の名前を呼ぶことだけなのだ。

 ちなみにこのシーンは、ライナーノートではあっさり「ドバはハルルを見舞った。/『カララが子を宿していた、と?』」とたった2行書かれているだけである(※2)。渡邉の脚本で加わったか、絵コンテで深堀りをしたのかはわからない。ただ絵コンテを見ると、ト書きにドバの心理が書き込まれていて、ドバの‟業”を描くうえで大切なシーンと意識して演出されていることがわかる(※3)。

 このシーンではドバは完全に、ハルルを突き放して見ている。ハルルの嫉妬の告白にドバは内心「やってられんなぁ」と身を引き、さらに「俺には男の子がいなかった! と考えている」とも書かれている。

 この絵コンテのト書きは言うまでもなく後にドバが漏らす「ハルルが男だったらという悔しみ、カララが異星人の男に寝取られた悔しみ……。この父親の悔しみを誰が分かってくれるか……」という台詞に繫がっている。

 最終決戦の中、本星の最高権力者ズオウ大帝が死に、全軍を指揮するドバは実質的に最高権力者となっている。最高権力者としての「脅威となる無限力イデは、手に入れられないのであれば殲滅するしかない」という大義と、私的な父としての憤懣が、渾然となった状態でドバは戦闘指揮をとっているのである。このように公私が入り混じった複雑な内面を持つ人間像は、それまでのアニメには登場しなかった種類の人物だった。

 自分の内面にこれだけのものが渦巻いているからこそドバは「知的生物に不足しているのは、己の業を乗り越えられんことだ。」と喝破する。ドバは己の中の「欲、憎しみ、知恵のこだわり」といったものを自覚したうえで、そう語るのである。そして実際、ドバは自分の‟業”に縛られて、ハルルの‟業”を理解しようともしなかったのである。
 

業からの解放

 こうして‟業”を体現するドバ率いるバッフ・クラン軍とイデオン、ソロシップは激しく戦い合う。バッフ・クランが行う、彗星の軌道上にソロシップをおびき出して直撃を狙う作戦や、超新星のエネルギーを集約して発射するガンド・ロワの攻撃など、スケールの大きな作戦が連続して繰り出され、メインキャラクターたちは子供であっても容赦なく死んでいく。

 そしてドバとコスモのイデオンが、刺し違える形になりすべての戦闘が終わる。やがてハッピバースデーの歌とともに、カララの中にいた子供‟メシア”が現れる。メシアが導くのは、登場人物たちの魂(半透明な裸の姿で表現される)である。魂となった人々は、穏やかで優しく、‟業”から解き放たれていることがわかる。彼らは、無数の光となって惑星の海へと降り注いで映画は締めくくられる。このラストは、ほぼライナーノート通りである。

 キャラクターが全員死んでしまう展開を悲劇ではなく、世界の理、ひとつの世界観として示すこと。ミクロな人間関係の積み重ねから始めてそこに到達すること。演出としては――各要素はよりソリッドになっているものの――『ガンダム』の延長線上にある本作だが、戯作としては『ガンダム』よりもさらに観念的な内容に挑み、最終的に‟業”というキーワードを発見することで、それを表現することを達成した。
 

自我と科学技術と世界

 富野はこのような一連の『イデオン』における戯作を通じて、その後の作品でもたびたび取り上げるテーマを獲得した。本人に具体的な自覚があったかどうかはわからない。しかし『イデオン』を経たことで、戯作する上でのベースが出来上がったことは間違いないように考えられる。

 そのテーマはひとことでいうと「自我と科学技術と世界の関係性を描く」ということになる。

 「自我」とは、キャラクターが心に抱えているある種の欲望のあり方だ。これは私的なものから、社会的な立場に基づく公的なものまで幅広く存在する。ちょうどドバが、父親としての屈託を抱えつつ、バッフ・クランの大義を行おうとしていた構図がそれにあたる。この「公私にわたる欲望」が登場人物の根本の行動原理となる。

 「科学技術」は、富野がメカものを演出する上で避けられないファクターである。科学技術は便利だが同時に、人間をそこに取り込んで堕落させるものでもある。『イデオン』では、イデのエネルギーはイデオナイトという特種な鉱石によって、イデオンとソロシップに集約されているという設定であった。

 また、放送終了後のインタビューで富野はイデについて次のように語っている。

つまり、イデの設定の第1条件として、人間に無関係なところには置きたくなかった。イデが宇宙を作り、人を作ったという‟絶対的存在”にはしたくなかったんです。

 ようするに、ぼくは、人間の智恵が生み出した‟神”という概念に相対するひとつの‟力”として、イデを考えてみたんです。(※4)

 つまりイデという無限力は、その全貌は人間にうかがいしれないものの、オカルティックなもの、宗教的なものではなく、あくまでも科学技術の延長線上にあるものとして扱われているのである。なおこの発想の根底には、別のインタビュー(※1)で名前を挙げているとおり、映画『禁断の惑星』(1956)における「イドの怪物」の存在があるのはいうまでもない。つまり『イデオン』は、イデという科学技術を人間がいかに理解しうるか、という物語であったのだ。

 「世界」は別の言い方をすると「世の理」である。『イデオン』であるなら、すべての魂がやがて新たな生命に生まれ変わるという輪廻の仕組みがそこにあたる。富野の説明する通りイデは‟場”であり‟科学的な存在”ではあるが、同時に「命を巡らせ、より善き存在を目指す」という、命――というよりも魂か――の大きな循環という「世の理」を体現している。
 

富野作品の原型

 ではこの3つはどのような関係性で結ばれているのか。それは「科学技術」をインターフェースとすることで、「自我」は「世界」に触れることができる、という形なのである。『イデオン』はこういった形で描かれるドラマの原型(アーキタイプ)といえる。

 「自我」は「世界」へと直接触れることはできない。それはシャーマンのような特殊な人間か、シェリルのように狂気の淵に接近した人間でないと不可能である。普通の人間は、そこに「科学技術」というインターフェースを挟むことが必要なのである。

 例えば強いロボットがパイロットの身体の延長として表現されることからもわかるとおり、「自我」は「科学技術」というインターフェースによってしばしば強化される。しかしそれは常に「自我」を「世界」へと導くものではない。「自我」は「科学技術」によって強化されることで、時に暴走して自滅に至ることもありえる。この暴走をコントロールできるのが‟智恵”と呼ばれるものになる。

 これに則って『イデオン』を語り直すと、イデオン、ソロシップという「科学技術」をインターフェースにして、‟業”に縛られた「自我」が、より善き存在が求められる「世界」を垣間見ることになる物語であった、ということになる。

 本連載で『ガンダム』と『イデオン』にこれだけの紙幅を割いたのは、戯作者としてのテーマが明確になる過程をちゃんと確認したかったからにほかならない。

 このテーマ性を念頭におくと、『イデオン』から連続性のある作品は『聖戦士ダンバイン』であるということがはっきりする。一方で『戦闘メカ ザブングル』と『重戦機エルガイム』は、すこし傍流に位置することがわかる。『機動戦士Zガンダム』以降の『ガンダム』シリーズが、最初の『ガンダム』とどこか違う雰囲気を身にまとっているのも、この「自我」「科学技術」「世界」の要素が盛り込まれているかどうか、というふうに考えることができる。

 

【参考文献】
※1 『アニメック 13号』1980年10月、ラポート

※2 日本サンライズ編『伝説巨神イデオン 記録全集5』1981年、日本サンライズ
※3 日本サンライズ編『伝説巨神イデオン 記録全集3』1981年、日本サンライズ
※4 『アニメージュ』1981年3月号、徳間書店

 

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