「君の部屋だと、不思議とよく眠れるんだ」
俺の隣で横になったまま、彼はそうポツリと呟いた。
「狭いのが落ち着くのかな?」
フランツの身長は195cm、俺は186cmとちょっと。二人とも肩幅が広いので、キングサイズのベッドでも二人並ぶとけっこうきつい。俺の部屋はフランツのアパートより狭いし、ベッドも普通のダブルでフランツのところより小さいから、相当窮屈に感じるはずなのだが。
フランツと二人で過ごすのは彼のアパートが多いけれど、時々彼はうちに来たがる。俺が作る日本食を食べたいと思う時とか(俺は自宅では、一汁三菜的スタンダードな日本食の自炊で通しているのだ。実は、フランツは料理もうまい。彼の場合、しっかり栄養学を勉強して、ダンサーの身体のためにベストと彼が考えるメニューを作り、自炊しているのである。とにかく、すべてにおいて手抜きということをしない男だ)、あるいは、俺が見たところ――ちょっと気分が落ち込んでいる時とか。
「俺はこの本読んじゃうから、フランツはもう寝なよ。読書灯、眩しい?」
俺は、枕元の読書灯の位置を直した。
「いや、大丈夫だ。キスしてくれ、HAL。おやすみのキス」
俺はフランツの右の眉にキスした。
「おやすみ、フランツ。いい夢見なよ」
「僕は夢は見ない」
「それでも、いい夢見なよ」
そう声を掛けるのは、「夢は見ない」といつも言うフランツが、俺の部屋で眠るとしばしば夜中にうなされるからだった。
具合でも悪いのかとびっくりして飛び起きたら、苦しげに顔を歪めていて、手がもどかしげに何かを探している。
その手を両手で包むように握ってやると、明らかにホッとした子供のような表情になるので、その表情から緊張が消え、再び静かな寝息を立てて寝入ったのを確認できるまで、手を握ったままじっと見守る、ということが何度かあった。
彼はいつもポーカーフェイスで、日常生活では決して内面を見せない。愚痴や弱音を吐いたこともない。なので、リアル王子ともいえる彼の重圧がどのくらいのものなのか、俺には想像もつかない(彼の家の当主になると、事業を率いるのみならず、公私に亘る内外の団体のべらぼうな数の役職を兼務しなければならないらしい。既に引き継いでいるものもけっこうあるそうで、電子契約書や分厚い書類の束に目を通しては、黙々とサインしている姿をよく見かけた)。いつの時代も王子はたいへんだな、と眠る彼の顔を見て可哀想になった。
かと思えば、彼の部屋で夜中に何かの気配を感じて目を覚ましたら、彼が怖い顔で俺を覗き込んでいたことがあった。
「何?」
「起こしてしまったかな。すまない」
「どうかしたの?」
「前から知ってはいたけれど、君は本当に静かに眠るんだな。水を飲もうとして起きたんだが、君があまりにも静かで、息をしてないんじゃないかと不安になった」
「ああ、道理で。その不安に反応して目が覚めたんだ」
俺は目をこすった。
「俺は用心深いんだよ――普段はなるべく気配を消すようにしてるんだ」
「眠る時も?」
「たぶん、無意識のうちにそうしてる。いちばん無防備なところを誰かに見つかりたくないから」
「なるほど、僕は『慎重』だけど、君は『用心深い』んだな」
「うん。フランツなら分かるだろ? 俺たちみたいなのは、自分の身を守るためには、いつも気をつけてないと」
ああ、と思い当たったようにフランツは頷いた。
「僕は子供の頃、誘拐保険に入っていたからな。いや、今も入ってるか」
俺は思わず「ひえっ」と小さく叫んでしまった。
「誘拐保険って、イタリアとか中南米とかでは聞くけど――しかも、企業幹部とか大人が入るものだと思ってた」
「幸い、これまで使う機会はなかった」
フランツは欧州有数の旧家の次期当主だ。身代金目当ての誘拐の対象になってもおかしくない。
「でも、実際のところ、本当に警戒しなきゃならなかったのは、誘拐よりも教会のほうだったけどね」
彼はポツリと呟いた。
その意味するところにピンと来た。
「そうか――フランツの家はカトリックだもんね」
「問題のある聖職者を、上はかばうし、せいぜい異動させるだけだから」
暗がりに座っているフランツの顔は見えないが、世界中のカトリック教会で問題になっている、聖職者による未成年への性的虐待に遭っているに違いない。これほどの美少年に、閉鎖的な空間で、圧倒的に強い立場にあるペドフィリアが目を付けないはずがない。
「ただ、この時ばかりは、うちの父親は頼りになったな」
フランツはクッ、と低く笑った。
「僕の話を信じてくれたし、打ち明けたことを誉めてくれて、すぐに行動に移してくれた。なにしろ、『カトリックの庇護者たれ』というのが古くからの家訓の家だからね。さんざんカネを出してやってるのに、堕落した聖職者ごときが我が家の人間と汚らわしい行為に及ぶなぞ断じて許さん、という意思と怒りは凄まじかった。悪質な常習犯だったそいつの罪の証拠をあらゆる手を使って集めて突きつけて、刑事事件にするのだけは勘弁してやると言って、教会から追放させたのさ。あの冷徹さと、目的遂行能力だけは感心する」
「ふうん」
俺は頭の後ろで腕を組んだ。
「フランツのお父さん、名前なんていうの?」
「フリードリヒ」
これまた、世界史っぽい名前だなあ。
「お父さん、不器用な人なんだね」
「何が」
「愛情表現」
フランツが鼻白むのが分かった。
「あれが愛情表現なものか。家名を貶めるものに対しては厳しいのさ」
「そうかなあ。子供が性的虐待を訴えても、信じてすぐに行動してくれる大人は少ないよ。勘違いじゃないの、とか、夢でも見たんじゃないの、とか言われがち」
ましてや、打ち明けたことを誉めてくれるなんてことは、なかなかない。どれだけ勇気を振り絞って子供が打ち明けているのか、大人は分からない。大抵は、懐疑的な表情になるか、面倒を持ち込まれたという顔になる。そのことに、子供は二重に傷つくし、自分を責める。
フランツがチラッとこちらを振り向いた。
「君もそんな目に遭ってるんだな」
「日本の教師も同じさ。上は異動させて口をつぐむだけだ。ああいうのはビョーキだ。異動先でも遠からず被害者が出るのは分かり切ってるのに、教師を辞めさせない。そういう奴に限って、授業がうまかったりするからな」
俺は肩をすくめた。
「俺は用心深かったし、そういう奴に対してはよく勘が働いたから、ヤバそうな奴には近付かなかったし、絶対二人きりにならなかった。俺のことを執拗に狙っていたホントにヤバイ教師がいたんだけど、俺は徹底的に避けた。向こうはあの手この手で俺と二人きりになろうとしたけど、その都度いちはやく察知して、とにかく逃げた」
あの粘っこい視線。遠くからでも、あの目で見られるとゾッとして鳥肌が立った。今でも、思い出すだけで虫酸が走る。
そして、ああいう連中の目の奥は、皆一様にどろりとしていて、どこまでも底なしに真っ暗だった。
「俺の担任じゃなかったのはラッキーだった。よその担任とは二人きりになる理由がないからね」
あいつは俺を「飼う」つもりだった。いったん手を触れさせたが最後、とことん俺に執着していただろう。
「だけど、そういう連中は、ひどく狡猾だろう? 決まって最後は『あいつに誘われたんだ』って言い出すし」
「うん。でも、そこは我慢比べさ。俺がそいつの欲望を見抜いていて、絶対に言いなりにならないと観念したんだろう。その頃、バレエも習い始めていたしね。うちは田舎だったから、バレエの先生が車で送り迎えをしてくれていたし、つけいるスキがないと判断したのかもしれない。俺はなんとか逃げ切れた。後悔してるのは、その件を誰にも打ち明けなかったことだ」
苦いものが込み上げてくる。
「そいつは、俺にしたくてできなかったことを、他の子で間に合わせようとした。その子たちは、俺みたいに用心深くなかったし、教師がそんなことをするなんて考えたこともない子たちだった」
【後編へ続く】