市街地ギャオ

かぁいいきみのままで

第40回太宰治賞受賞作&第46回野間文芸新人賞候補作となった『メメントラブドール』の単行本発売(2024年10月28日頃)に先立ち、期待の新星・市街地ギャオの受賞後第一作を特別掲載! 『メメラブ』のスピンオフでもある短編「かぁいいきみのままで」、単行本と合わせてぜひどうぞ。(PR誌「ちくま」2024年10月号より転載)

 

 

 

 翔吾の撮影スキルの上達は土星ちゃんのダンス力の上達よりも早く、だけど土星ちゃんのマイクホールド技術のそれよりは遅かった。翔吾の目下の悩みはどうしても自分の撮る映像から素人くささが抜けないことだ。土星ちゃんは頭を振り乱す激しい振りの曲でもその歌声をブレさせることがなくなって久しいというのに。
 前方三分の一以外は人がまばらな、うなぎの寝床みたいなライブハウスの最前列。計八組の地下アイドルグループがブッキングされたこのイベントの六組目に、土星ちゃんたちは出演している。今日の土星ちゃんの衣装は黒のタンクトップに黒のフリルが段になったフレアスカートで、初めて見るものだった。タンクトップには激しいフォントで「Emotional」と殴り書かれている。パンキッシュとキュートをミックスさせた雰囲気が土星ちゃんによく似合っていたから、今日はいつも以上にハンディカメラを握る翔吾の手に力が入る。
 タンクトップがゆるっとしたサイズ感であることに心配が募る。その下にぴったりした見せキャミを着ているとわかっていても、タンクトップの肩がずり落ちてくると見てはいけないものを映像に収めてしまっている気分になる。
 カメラの液晶越しに土星ちゃんから爆レスを受ける。オタクではなくメンバーが主導する、間奏のうりゃおい煽り。土星ちゃんは翔吾のカメラに向けて、丸くて小さな拳を何度も突き出す。翔吾の左右にいるオタクも寄せては返す波のようにステージ上の他のメンバーに向けて己の拳を突き上げている。動くと映像がぶれてしまうから、翔吾は曲にあわせて揺れることすらできなかった。ダンスビートの四つ打ちキックに合わせた土星ちゃんの拳に何度もエアーで殴られて、翔吾はハッとして液晶から目を離す。手が届きそうなほど近いステージから、土星ちゃんが翔吾を見下ろして笑っていた。ふたりの目が合う。YUKIが『JOY』のミュージックビデオでしていたツートンのボブをそのまま胸元まで伸ばしたような土星ちゃんの髪が翔吾目がけてなびく。翔吾は土星ちゃんに笑い返すことができず、かといって目を逸らすこともできないまま、顔の内側に灯った熱をフロア前方の盛り上がりと混同してしまいたい、そんな風に、フロアとは違う場所にある心で考えている。ステージに最適化された土星ちゃんの笑顔。いっそ不自然ですらあるそれがいつから発生するようになったのか、翔吾はよく覚えている。先月のワンマンライブからだ。毎公演、下手側最前列を位置取って映像を撮っているから、翔吾には土星ちゃんのどんな些細なことさえも、たとえば息遣いのタイミングが変わったことだってわかってしまう。前の土星ちゃんの笑顔の方が好きだった。戸惑いと自然さが同居した、すこし引き攣ったあの笑顔。そんなことを考えてしまう自分の傲慢さに気づいた瞬間、ライブ中にも拘わらず翔吾はひどく落ち込んでしまう。土星ちゃんの選択ならなんだって応援したいと思う心と、土星ちゃんにはこうあってほしいと願う心は決して矛盾しないと思いたい。土星ちゃんには健やかに生きていてほしい、その気持ちは翔吾から土星ちゃんに向いたすべての矢印を包括してただそこにあるのだから。
 間奏後の落ちサビは土星ちゃんの独壇場だ。他のメンバー全員がうずくまる中、土星ちゃんだけが天井に向けて手を伸ばして歌い上げる。土星ちゃんの声はメンバーいち特徴的で、単純な歌唱力だって一番目か二番目に高いから、重要なパートを任せられることが多かった。
 曲として好きなのか、土星ちゃんが落ちサビをフルで歌っているから好きなのか、判断できないまま翔吾のApple Musicの再生数トップにはこの曲が鎮座している。普段はiPhoneのボリュームを50%に設定してAirPods Proから鼓膜に流し込んでいる土星ちゃんの声を、いまは1000Wのスピーカー四基から全身で受け止めている。音源と翔吾の間に走る物理的な距離はイヤホンより遠いはずなのに、いまの方がうんと近く感じる。土星ちゃんの、キャラメリゼされたドライフルーツみたく甘くざらついた声帯で張り上げる歌声はアニメ声ともハスキーボイスともすこし違う、代名詞のない歌声だった。歌っているときの射抜くような土星ちゃんの目は、オーディションのときからずっと変わらない。
 一番映像をブレさせたくないところなのに、翔吾の左腕は上がってしまう。白一色に変わったステージ照明が、土星ちゃんの指先から足元まで順番に照らしていく。翔吾の腕がそこに交わることはないのだけれど、土星ちゃんの動きを模倣せずにはいられなかった。なにか大きな力に導かれているように、翔吾は贅肉のたっぷりついた自分の二の腕を、重力に逆らわせる。
 自分の後方でも上がっているだろういくつもの腕を想像する。翔吾自身の腕だけを特別なものとして捉えてほしいとはとても思えないけれど、景色の一部以上として見ていてくれると嬉しい。これくらいのことは思ってもいいのか、それともこれすら醜悪な欲望であるのか、翔吾にはわからない。わからないから、願ってしまう。

 翔吾が土星ちゃんと出会ったのは半年前だった。「何度も諦めてきた夢を、今度こそ」という謳い文句でスタートしたアイドルグループのオーディションに密着したYouTube動画が翔吾のタイムラインに突如浮上してきたのが、最初の邂逅だった。投稿日と再生回数から推測するに、低空飛行のまま収束に向かっている渦中なのが瞬時に想像できた。順調とは言えない滑り出しだったからこそ、翔吾はそのサムネイルをタップすることができたのかもしれない。自分のような人間でも、もしかしたら求められているんじゃないだろうか。前の推しから離れて半年も経たないうちにこういったものに触れるのは、と翔吾の中の潔癖な部分が異議を唱えたけれど、その異議は半年弱湛えてきた虚無と寂寞によりあっけなく却下された。
 土星ちゃんはオーディション参加者の中で、決して目立っている方ではなかった。オーディションのストーリーは主にアイドル活動経験者だった女の子たちに焦点が当たり、オーディションのキャッチフレーズとして掲げられていた「何度も諦めてきた夢」という言葉が指し示す先は、「アイドルになる夢」ではなく、「アイドル人生を続ける夢」だったらしい。プロデューサーからパワハラをされて辞めた女の子、まったく売れなくてグループが解散した女の子、メンバーの不祥事に巻き込まれて脱退を余儀なくされた女の子……。センセーショナルなエピソードがまるで彼女たちの人格そのものであるかのように解体され、再編集されていた。その中で、土星ちゃんにくっついていた「ずっとアイドルになりたかった女の子」という肩書き自体に訴求力はほとんどなく、その代わりなのか応募者の中で最年長の二十七歳という年齢ばかりがいたずらに取り上げられていた。他の女の子たちが過去を回想し泣いているシーンばかり切り取られているのに対し、土星ちゃんは未経験だった歌とダンスを必死に練習している、ある意味ではオーディションの王道ともいえる映像に「二十七歳看護師、初めての挑戦」といった寒々しいキャプションを添えられることが多かった。ダンスはたしかに上手ではなかった。力の入れどころと抜きどころがひとりだけ違っていて、限られた時間の中での振り入れだって慣れていなかったから、土星ちゃんはいつも手足を小さくばたつかせながら、困ったように周囲を見回していた。それなのに、自身が歌うパートが来ると別人のようになり、それまで伏し目がちだった目線をまっすぐ審査員に向けて、どこまでも伸びていくように歌った。その歌声は、パフォーマンス審査用に設置された定点カメラも、映像が公開されてから翔吾のタイムラインに届くまでの歳月さえも突き抜けて、翔吾の耳に直接届いた。届いてしまった、と気づいたときにはもう、目を瞑っても土星ちゃんの引き攣った笑顔が脳裏によぎるようになっていた。

 初めてライブ後の特典会で土星ちゃんと話したときのことを翔吾はいまでも頻繁に思い出す。翔吾の前にはすでに五人の男性が並んでいて、全員が翔吾より一回りは年上に見えた。
 かつて翔吾が別のアイドルのオタクをしていたとき、そのグループの接触イベントは「特典会」ではなく「握手会」と呼ばれていた。初恋の推し。その名の通り、規定時間推しに手を握られながら、おしゃべりする会だった。それがいまは「特典会」。握手をしながらおしゃべりして、その後チェキを一枚撮ってもらう。翔吾は半年前までコンカフェキャストのオタクをしていたから、チェキ文化にだって慣れていた。人生二人目の推し。だけど、握手とおしゃべりとチェキが一体となったものは経験したことがなく、元来のあがり症に、会場が熱気さめやらぬ薄暗いライブハウスであったことも影響してか、極度に緊張していた。人生三人目の推しになるかもしれない。いや、きっとなるだろう。息の仕方を忘れてしまったように浅い呼吸しかできず、平静を呼び戻そうとすればするほどつるつるの心臓は早鐘を打った。眼前にちらつくオタクの後頭部がひとつずつ減っていく。はーい次のかたー、とスタッフの半円を描く指先に誘導される。踏み出した一歩が自分でも情けなくなるくらい小さかった。
 土星ちゃんは翔吾の顔を見て第一声で「何歳?」と尋ねてきた。こういうときは来てくれてありがとう、とか、名前は? とか言った方がいいんじゃないだろうか、と咄嗟に思って、そんなことを偉そうに思っている自分は何様なんだろうと自己嫌悪に陥りながらも、「あ、三十一歳です」と呟くように答えた。「えーじゃあ同世代じゃん! そうだと思った!」自分の顔から五十センチほどの距離にある、半分ほどの大きさの顔がどんな表情を浮かべているか窺う余裕なんてあるはずもなかった。二十七歳の土星ちゃんと自分が同世代と言えるのか、という疑問は口に出せなかった。土星ちゃんの発言を否定するようなことは、それがたとえポジティブな意味を孕んでいたとしても、できなかった。
 翔吾がなにも返せずにいると、土星ちゃんは「ねえ名前は?」と追加の質問を投げてきた。「もうおじさんだから、おじさんって呼んでください」予め用意していたキラーフレーズが封じられてしまっていることに気づく。だって、おじさんを自称することは、間接的に土星ちゃんをおばさん扱いしてしまうことになるのだから。やっぱりさっき、土星ちゃんの同世代という発言を否定しておけばよかった。オーディション動画に投下された「おばさん」というコメントにバッドがたくさんついていて安堵したのに、自分もそのバッドに加担した瞬間に安堵が後ろめたさに変わったことを思い出した。
 だから、翔吾は初めて推しに自分の名前を告げることになった。「じゃあしょーちゃんだね。チェキ、よかったらSNSにアップしてね。わたしが盛れてるか見に行くから」
 翔吾のきょろきょろと動く黒目が一瞬だけ捉えた土星ちゃんの瞳は、薄く灯ったフロアの照明を反射して鈍く光っていた。その光が、ライブ中翔吾の目の前にいた男が手に持っていたスマートフォンの液晶の中で笑う土星ちゃんの姿と重なった。その男は、ライブ中ずっと動画を撮っていた。土星ちゃんが本当に盛れている、ステージの上で歌っているその瞬間の連続を、自分の手で土星ちゃんに見せてあげたい。だから、先に実家を出た五歳下の弟が置いていったLUMIXの操作を覚えてみようと思い立った。土星ちゃんにあの輝きを教えてあげたいなんて、傲慢もいいところだけど、それでも。

 YouTubeに撮影したライブ動画をアップするようになってから、五ヶ月が経った。再生回数はいつまでも二桁のままで、このグループへの世間の注目が凪であることを示していた。だけど、翔吾はこの動画が土星ちゃんひとりに届けばいいと思っているから別に数字なんてどうでもいい。この規模のグループ活動で土星ちゃんがどうやって生活の糧を手に入れているのか、アイドルになるまでやっていたという看護師を辞めて本当に後悔していないのか、そういったことを考えると気分が沈んでしまうのに、映像の再生回数が少なくてもまったく気にならないことが翔吾は不思議だった。非正規のパートタイムで働く翔吾の経済状況では、チェキを何枚も撮ることはできない。大したお金を落としていない翔吾には土星ちゃんの生活を心配する権利などない、そういった無意識があるのかもしれない。
 今日も仕事の休憩時間にYouTube Studioのアプリを開くと、珍しく動画にコメントがついていた。「土星ちゃん、最初の頃はずっと泣きそうな顔してたし、ちゃんと笑えるようになってほんとよかったよね。歌はずっといいし。あとはダンスだけw」グッドが三件ついていた。コメントの内容そのものにも、姿の見えない三人の同意表明にも、翔吾の心は揺れ動いた。昨日アップロードしたばかりのその動画を見返す。たしかに土星ちゃんのダンスは、翔吾が初めてライブを観た日から大きく成長はしていない。
「ちゃんと笑う」その言葉が動画を見返している最中も、休憩を終えてからも、ずっと翔吾の頭に残り続けた。土星ちゃんには、土星ちゃんが輝く姿だけを見ていてほしい。この作られたような笑顔は土星ちゃんが望んだ結果なのだろうか。望んだ、と、望まされた、の違いを言葉で説明することは、翔吾にはできない。じゃあ翔吾がフィルター越しに土星ちゃんを収め続けるこの行為は、土星ちゃんが望んだものなのだろうか。土星ちゃんにはそのままでいてほしい。だけど、「そのまま」という未分化な言葉の真意をそれ以上は解き明かせなかった。一時停止と再生と早戻しを何度も繰り返しながら、かつての土星ちゃんの笑顔を探す。

 初恋だった「握手会」の推しは、彼女が引退するまでオタクを続けた。先に辞めていったメンバーに性格の悪さを暴露されても、手繋ぎデートをフライデーされても、リベンジポルノにほど近い画像が流出しても、翔吾は現場に通うことをやめなかった。数々のスキャンダルによって彼女が日に日に摩耗していくのがありありとわかって、その減衰に呼応するように翔吾の精神も沈んでいった。だけど、応援をやめるなんて考えはなかった。理由はいくらでも浮かぶけれど、だけどどれも些細なものばかりで、明確なひとつを挙げろと言われたら困ってしまう。理屈ではないのかもしれない。翔吾はただ現場へ行き、彼女の手を握り、いつしか彼女の方から手渡してくれなくなった会話の糸口を必死で探した。絶対に彼女を傷つけてはいけない、そう思うと自ずと話せることは絞られていって、翔吾は毎回「今日の公演もよかったよ」と述べるだけの機械になった。彼女もまた「ありがとね」を繰り返すだけの機械になって、ほどなくしてグループからの卒業と芸能界からの引退が発表された。六年に亘った初恋の終わりを、翔吾は「これからもずっと元気で生きててね」という台詞で締めくくった。彼女からは判然としない嗚咽だけが返ってきて、翔吾は帰りの電車の中で周囲にばれないよう膝に顔を埋めて、初めて泣いた。踏みとどまってきた日々を、体の奥底に溜まった感情を天地返ししたように、涙は次から次へと溢れて、五駅も乗り過ごしてしまった。五駅分、歩いて帰りながら、また泣いた。
 次に出会った推しは男の娘コンカフェのキャストだった。彼、と言い切るのは嫌だけれど、彼女、というのもまたその人の尊厳に薄紙で切り傷をつけてしまいそうだから、彼と呼ぶ。少しずつ男の娘の格好をやめて、男の子に回帰していった彼に、「そのままでいいよ」と翔吾は声をかけ続けた。本当は彼が宣材写真で纏っていた、赤チェックのアイドル風の衣装やメイクの方が好きだったけれど、それ以上に推しという存在そのものが好きだったから、服装やメイクなんて、性別なんて、取るに足らないことだと思っていた。彼という存在そのものがかわいくて、愛おしかった。あの宣材写真の衣装は、初恋の推しのものに似ていた。初恋の推しに似ているけれど、彼女と同じ結末に帰着することは絶対にないとわかっていたから、翔吾は彼に惹かれたのかもしれない。翔吾自身が前のように傷つかなくて済むから。だって、男の娘だから? もし本当にそうなのだとしたら、翔吾は彼のなにを奪っていたことになるのだろう。彼との日々は漫然と続き、翔吾はそれで満足していた。だけど、彼の裏垢が流出してしまったことに、翔吾は耐えられなかった。二年間の恋だった。夢を壊されたからでは、きっとない。彼が悪いのだとは当時もいまも、ほとんど思っていない。ただ自分がふがいないばかりに、隣に居られなくなった。ごめんね。口には出せないその言葉は、脳内で響かせると罪悪感の色をより濃くさせる。
 初恋の彼女と同い年で、彼女がたまに握手会で言っていた「生歌のライブがしたいな」という願望を叶えている土星ちゃんに惹かれたことだって、もしかしたらなにかの搾取に当たるのかもしれない。
 六年間、最後まで伴走した彼女。二年間で翔吾の方から離れてしまった彼。翔吾は自分の情けなさが怖い。年々基礎代謝が下がって大きくなっていく自分の体に抗うように、心は小さく、フラジャイルになっていく気がするのだ。この先自分は、誰かを自分の心の中に色づかせて日々をやり過ごすことができるのだろうか。そこまで考えて、土星ちゃんの存在がもう揺らいでしまっていることに翔吾は気づく。土星ちゃんと出会ってから、まだ半年しか経っていない。

 子供部屋の中で唯一変わったのはデスクだ。翔吾が社会人になってすぐの頃、父親が就職祝いにちょっといいワークデスクを買ってくれた。「いつまでも子供用の机なんて情けないだろ」と言って、入社式で着るスーツとともに。入社して一年で上司のパワハラに耐えきれなくなって辞めてしまって以来、翔吾がそのスーツを着ることはなかった。いまはクローゼットの端っこで所在なげに息を潜めている。翔吾がかつてあの会社に帰属していた証は、いまやこの部屋にしか残っていない。デスク脇のチェストに手をかける。
 チェストの一番上の引き出しには二冊のチェキ帳が入っている。一冊は土星ちゃんのチェキで、そしてもう一冊は男の娘コンカフェの彼のチェキ。推しが過去の人になったとしても、翔吾はそれを捨てることができなかった。初恋の推しのグッズだって、チェストの一番下の引き出しに入ったままだ。なかったことにはしない。もしかしたら彼女は忘れられたいのかもしれない。希望に満ちたデビューの果てが、傷だらけの敗走であったことなんて。それでも、翔吾の心の片隅で眠る彼女は凜としてかわいい。もう随分と開かれていないチェキ帳の彼が、翔吾の中でいまもそうであるのと同じように。

 開いたチェキ帳の、最初のページに挿入されていたチェキを取り出す。まったく無表情の翔吾と、引き攣った笑顔の土星ちゃん。なにも書かれていない余白に、ダイソーで買ってきた太字のカラーペンで文字を落としていく。チェキに落書きをするのは人生で二度目だった。一度目はコンカフェの彼に頼まれて書いた。彼はあのチェキをいまも捨てずにおいてくれているだろうか。文言はそのとき書いたのとまったく同じものにした、それ以外に考えられなかったから。いましがた書いた文字の下にいるのは、すでに過去の人となった土星ちゃんだ。みんなの人生は流れていくのに、無表情の翔吾だけが時間軸から切り離されて、ただここにいる。かつての土星ちゃんの笑顔の上にこの言葉を書いた意味を、翔吾は書く前からわかっていた。三度目のロンググッドバイだ。ごめんね、情けない俺で。本当にごめん。だけど、絶対に忘れない。
「健やかに生きていてね!」チェキの白場でメッセージの形に乾いたインクをなぞる。すべての推しに向けて放ってきたその言葉を、いま自分は誰に向けていたいのだろう。緩慢な指先がとつとつとなにか語り始めるのを、翔吾の涙腺は待っている。

 

 


(了)

2024年10月18日更新

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市街地 ギャオ(しがいち ぎゃお)

市街地 ギャオ

1993年、大阪府生まれ。大阪府在住。会社員。2024年『メメントラブドール』で第40回太宰治賞受賞。同作にて第46回野間文芸新人賞候補。