雲にハサミを入れる po/e/t/ry

ひかりはいつ
「雲にハサミを入れる —po/e/t/ry—」⑨

いま注目の詩人である岡本啓さんによるエッセイの連載第8回です。今回は、街中でおこる一つの「奇跡」の話。ぜひお読みください!(タイトルデザイン:惣田紗希)

 はやめよう。行き止まりにそんな看板があった。隅には小さく「船橋警察署」 。はやめよう、でもなにを。近づいてみた。黄色の文字の部分だけ年月にかすれている。そっか、迷惑駐車はやめよう、ね。

 こんなこともある。エスカレーターで運ばれて行く。なにかを思いつめたときだったか、じっと虚空を見すえると、前の人のバックプリント。Let's get Lost. くすっとする。奇妙な英字のメッセージにはげまされる。

 詩は、紙のうえだけにあるわけではない。そういう気持ちをもって過ごしたい。本のなか、余白があって、改行があって、いかにも詩って雰囲気の言葉、そこにのみ詩があるのではない。ただし、紙のうえに限定しないと、詩はあやふやなものだ。それは見ようとするひと、聞こうとするひとにだけ見つかるなにか。オバケみたいなもの、あるいは沈黙みたいなもの。ところで、昔のひとには、理由のわからない出来事、なにか奇跡や恩寵としかいえない出来事がしばしおこった。自然のなかに。たとえば日食、たとえば落雷。それから、風か、虫か、そんなささいなことも、予兆として物事を受けとめた。

 おおげさに受けとめるひとに出会う。詩人で、まさに詩人というような、おおげさなひとに出会うと、おいおいとおもう。同時に、いいな、とおもう。生きている喜びに満ちているから。どんな国でも詩人にはそういう人がいる。そんな人を見つめながら、ぼくのなかでは、おいおい、いいな、がいつもミキサーにかけられる。なにごとにもぼくははっきりしない。波立ちにくいこんな男には、恩寵も奇跡もやってこない。信じるもののない現代人の典型だ。運命的な事件を失ってしまった。ぼくには奇跡はおこらない。わかってる。

 奇跡はおこらない。二時間ちかくかけて来た湾岸沿いの住宅街。来てはみたけれど、ここでしたいこともなく、はやく家に帰りたいだけなのだ。二〇二四年三月十三日、横浜市神奈川区。どこでもないところへ、うんざりしながら足を運んでいる。海沿いの風のない町。奇跡がおこった。

 ひかりはいつ?

 ひかりはいつ、こう彫ってあった。ビルの大理石に。なんでもない道のなんでもないビル。どういうことだろう。ひかりはいつ? 変わった問いかけ、それも大理石に活字で。ふしぎに包まれた。

 とまどって、それからわかった。このビルは、光ハイツという名のマンションなのだ。ありきたりな名前だから、なんとなく表記をひらがなにしてみた。と、いうところ。

 ただ、なんだかいいよね。ひかりはいつ、って。言葉のならびに、二通りの読み方がある。それに、ひかりはいつ? っていうよくわからない問いかけには、想像をめぐらせる余白がある。ひかりはいつ? ひかりはいつ? 口にすると、いつまでも理解がとどかず迷っていられる。とどかない意味のまばゆさに。

 その日のぼくはおもう。ぼくだけがそのよろこびを知る言葉だ。この言葉と出会うには、今日という日でなければ。たまたまここという場所におとずれなければ。ふとこの文字にふりむかなければ。奇跡かも。偶然を必然へとこうやって組みかえる。おいおい、いいなのミックスジュースなんて、まるで知らないようだ。喜びでいっぱいになる。とうとう詩人にぼくもなった? だけど、ふくらんだ想像の海面がひいて、しずかなこころになるとおもう。

 これはもうすこし大きな問いかけなのだ。ひとときだけおとずれた、あのふしぎの感覚、それをどうするか。ひとは事情がのみこめたら、それまでの自分の感覚を、新しい意味できれいに色付けしてしまう。ああ、なるほどと、納得して忘れてしまう。それはたやすい。原因、結果がわかる。するともう出来事は恩寵でも奇跡でもない。とるにたらないこととなる。しかたのないことだ。

 だけど、それ以前の自分におとずれた時間まで消し去ってはいないだろうか。たとえ一瞬といえる短さであっても、ひとときの自分自身を、とるにたらないものとして片づけてはならない。

 ひかりはいつ。単にそれはマンションの名前だった。

 だけど、わずかな時間だっただろう、いいようのないふしぎに包まれる者として、たしかにぼくはいた。

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