2・07 ―― これは宿命の数字と言うにふさわしい。合計特殊出生率、すなわち一人の女性が生涯に子をなす平均人数がこの数値を下回るならば、その社会は人口を維持できず、人口が減ってゆく。そして、周知のように、日本も、また他の先進諸国も出生率はこの数値を下回り、とりわけ東アジアではその低落にまったく歯止めがかからない(最新の数字では、日本:1・20、中国:1・00、韓国:0・72、台湾:0・87)。著者の大西広が強調するように、このことの持つ意味の深刻さを日本社会は受け止めていないし、いわゆる有識者たちのあいだでもあまりに危機感が薄い。
また、「人間が与える地球環境への負荷に鑑みれば、地球上の人口は増え過ぎたのであって、人口減少は望ましい」との意見もよく聞かれる。この論理は総体としては正しい。だが、出生率が2・07を恒常的に下回れば、人口は減り続け、いつかはゼロになる。少子化がどこかで底を打たなければ、やがて人類は消滅する。現代の社会制度が少子化をもたらしているわけだが、その社会制度が維持される限り少子化は止まらず、人口はゼロに達する。この世界が続く限り、この世界は終わる。
少子化の速度の問題も挙げておかなければならない。少子化により社会保障制度が立ちゆかなくなるとは、しばしば語られてきた危惧だが、問題は年金や医療にとどまると考えるのはあまりに甘い。昨今の日本では、バスが運転手不足のため路線を維持できなくなった、建設土木の労働者不足により工期が延びる、といったニュースがよく聞かれるようになった。これらはほんの序の口だ。少子化のため人口が全体的に高齢化しつつある日本は、これから全般的な労働力不足に陥る。全般的に労働力が足りないとは、どういうことなのか。それは例えば、道路に穴が開いても修復できない、真夏にエアコンが壊れても修理してもらえるのは秋になってから、停電が起こってもなかなか復旧できない、といった事態である。要するに、年金や医療が崩壊する前に、われわれの日常生活が根底から破壊され、命に関わる事態がもたらされるのである。また、そのような状況にあっては、労働力不足によるインフレーションの発生も考えられる。例えば、エアコンの修理に来てもらうには、通常料金では2カ月後になるが、倍額出せば1カ月後、5倍出せば明日来てもらえる、といった具合に。「命の沙汰も金次第」という状況が露骨に顕在化するのである。
適切な規模の労働力が社会に供給されていることによってこの世の中は回っている、という真理は、あまりに当然な事柄であるために、その真理が崩れたとき何が起るのかということを、われわれは想像できない。路線バスや建設の問題において、その一端をわれわれは垣間見ているのだ。
これらすべては、少子化の猛烈な速度、それによる人口の急速な高齢化によって生ずる事柄にほかならない。日本の総人口は、減少局面に入ったとはいえ、依然として多い。1億人を割り込む日も差し迫っているわけではない。しかし、同じ1億人であっても、平均年齢が20歳、40歳、60歳、80歳の人間集団は、それぞれまったくの別物だと考えなければならない。平均年齢80歳の集団が持続不能であることは自明であるが、そうした集団にわれわれは刻々と近づいている。そのような集団において持続可能性を再建しようとすれば、成田悠輔が口にしたように、それこそ高齢者に集団死を強いるくらいしか手がなくなる。つまり、人口が減ることが総論として正しいとしても、これほど急速な少子化によってそれがなされるならば、当該社会において途轍もない悲惨な事態が生じることに疑いの余地はない。
大西の議論は、かかる状況をもたらした社会制度、すなわち資本主義の現在をマルクス経済学の視角から分析するものである。その分析は、人口問題のみならず、経済政策、バブル現象、財政危機問題等々の主題を網羅し、広く及んでいる。そして、この社会制度=資本主義を変革するしかない、と説く。この世界を続けるためには、この世界を終わらせなければならない。このマルクス主義の命題は極論でも何でもないのである。
(しらい・さとし 政治学)
ちくま新書
バブルと資本主義が日本をつぶす
――人口減と貧困の資本論
大西 広 著
定価968円(10%税込)