昨日、なに読んだ?

File 130.喉が詰まって思い出す本
金原ひとみ『星へ落ちる』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホやタブレット、電子ブックリーダー……かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは、太宰治賞受賞&野間文芸新人賞候補となった衝撃のデビュー作『メメントラブドール』が発売されたばかりの市街地ギャオさんです。

 

 今、病院内の隔離部屋でこのエッセイを書いている。起き抜けは三十七度だった体温が病院で測ると三十八度に上がっていて、それを見た瞬間に眩暈が酷くなった。コロナかインフルの疑いがあるので隔離部屋に案内されて、IKEAのシングルベッド(IKEAは日本規格よりも横幅が狭い)くらいのサイズしかない間に合わせの寝台に座らされて、看護師さんが隔離部屋のドアを閉めた瞬間に座位を保つことさえままならなくなった。だけどいつドアを開けられるかわからないから勝手に横になることも憚られて、片手に重心の半分を預けた姿勢でiPhoneのメモにこの文章を書き落としている。

 二日酔いだと思っていた頭痛悪寒微熱吐き気などの症状が一日で治らず、これはもしかして風邪、しかもそこそこ重めのやつなのでは……? と  今朝思い至った。うがいをすると水に混じって喉の奥からカーキ色の膿がぼとぼと出てきて、それは確 信に変わった。そういえば頭より体より、喉の方が痛い。扁桃炎になったとき特有の、出口のない空間に閉じ込められる夢(空間の内容はそのときどきで違うが、今日は謎解きができるまで出られない船っぽい感じだった  気がする)も見た。起きたとき、ベッドに接していた体の半面がびしょびしょに濡れていた。きっと昨日から風邪の予感はあって、それでも信じたくなかっただけだなと気づいてしまうと、そのあっけなさで脱力してしまう。 このエッセイの締め切りが迫っていたし、昨日溜めたままのタスクや業 務連絡(会社員の方)もしていない。だから、今倒れるのはまずい。そもそも昨日病院に行っておけばここまでしんどくなることはなかったのだろうけど。

 そういえば、と繋げていくのはやや強引なのだけど、最初に自分の意思として掴み取った金原ひとみさんの『星へ落ちる』を読んだときもそうだった。高校の図書室で借りたこの本の返却期限(たしか十日とかだった)が迫り、もう読まずに返そうかなと思っていたそのときに、風邪を引いてしまったのだ。
 大学受験は終わっていたからもう学校に行く必要はなかった。両親は共働きで、当時一緒に住んでいた祖母も叔母も働いていて、きょうだいだってみんな学校に行っていた。誰の気配も気にしなくていい静かな家で、唯一の呵責が本の返却期限だった。きっと最後まで読破できることはないんだろうなと諦め半分の気持ちで、ジャケ借りした表紙をめくった。

 冒頭で蜜月の男女の関係がダイジェスト的に描写されたかと思うと、次の瞬間には女性の長く重い語りが始まる。長く重いのに、まったく読みづらいとは感じなかった。だって「わかる」ことしか書いてなかったから。大した恋愛経験もなかったくせに何を偉そうに、と今は気恥ずかしいのだけど、でも確かに当時のぼくはそこに書かれていることを「わかって」いた。それまで読んだどの小説も、文字が目の上で滑って、早く残ページをゼロにしたいという使命感だけでしか読み続けられなかったのに。初めての感覚に戸惑うよりも、小説世界への没入感の方が大きかった。

『星へ落ちる』は連作短編集で、三人の語り手によって各短編は構成されている。「私」と「僕」と「俺」。各々の矢印はときに混じり合い、ときに平行線を辿りながらも他の二人のもとには行きつかないまま潰えていく。
 三人の語り手はそれぞれひとりの人間(恋愛関係の渦中にある、もしくはあった相手)に歪んだ執着を見せるのだけど、そこへ向かう矢印は相手を透過して、語り手のもとに帰っていく。みんな、相手を見ているようで、相手の中にある自分自身の不在を見ているのだ。少なくともそのようにぼくには思えた。ないものを見ることは、基本的にはできない。だけど、そこに相手の幻影が存在してしまうから、見えてしまう瞬間がある。相手の中にある自分の不在の中に、それでもやっぱり自分が期待する相手が存在しているような気がしてしまう。だから抜け出せない。見えるまで何度だって目を凝らしてしまうのだ。 見えた気になったものはいつだって不確かで、その正体を見つけることはできない。
 ああ、この感じ知ってる。だって、自分がずっとやってきたことだ。これまで輪郭を持たない存在だったぐちゃぐちゃの心を言葉で表現することができるんだ。もしかして、それが小説なんだろうか。ぼくが今まで思っていた小説とは全然違う。

 風邪は一日で治ったけど学校には全然行きたくなくて、追加で一日休んだ。本の返却期限に間に合ったのかは覚えていないけど、その日から金原ひとみさんのことが頭から離れなくなったのは確かだった。大学生になって、学校の図書館にある金原ひとみ作品は全部借りたし、色んな本屋に行っては少しずつ買い集めていった。 新刊が出たらすぐに買った。そうして手に入れた本を何度も読み返した。

 金原ひとみさんの作品は、どれを読んでもどこを読んでも孤独だった。家族がいても友達がいても恋人がいても人間は本質的には孤独であると、文章のすべてが、行間のすべてが語りかけてくるようだった。孤独に対し人は無力で、ただただそれを受け入れるしかない。そのなす術のなさをシェルターみたいにして、ぼくは弱ったときそこに逃げ込んだ。現実世界に存在する何もかもを孤独に飲み込ませることは、破壊であり再生でもあり、もはやそれなくして前を向くことはできないんじゃないかと思ってしまうほどだった。

 だけど、二十代の終わり頃、孤独がシェルターとして機能しなくなってしまった。それが加齢によるものなのか時代の変化によるものなのか、あるいはそれらグラデーションのどこかの地点にあるものなのかはわからないけど、そういう自分に嫌気が差してしまったのだ。孤独にしかよすががないと感じている自分はなんて浅はかでペラい存在なんだと。
 もしかしたらもうぼくに文学は必要ないのかもしれないと思った。金原ひとみさんの小説をはじめとして、ぼくが文学から受け取ってきた一番のものは、孤独の連帯だったから。
 だから、ほどなくして金原ひとみさんの小説から孤独以外の光を見つけられるようになったとき、本当によかったと思った。孤独のために文学を選んでいたのではなく、ただ好きで文学を選んでいたのかもしれない、過去の自分をそうやって読み解ける可能性を提示してもらえた気がして、嬉しかった。

『ミーツ・ザ・ワールド』以降の金原ひとみさんの作品は、明らかにそれまでとは違ったものごとが書かれている。ぼくの意識の変容だけではなく、明らかに。
 他者が実像として存在する世界になっているのだ。孤独であることも、他者が存在していることも、シェルターに閉じこもることも、得体の知れない存在に自らを開いていくことも、すべてに同じ力学が適用されているような気がして、だからこそ、ぼくはこれから先も金原ひとみさんを、文学を好きでいられる気がした。ぼくが一度挫折した小説執筆を再開したのは、『ミーツ・ザ・ワールド』を読んだ少し後のことだ。

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 鼻の粘膜をこそぎとられるアレ(コロナとインフルの検査)をされた。喉の奥のアレ(溶連菌の検査)もされた。ぼくは痛みに弱いためアレが死ぬほど苦手なのだけど、意識が混濁しているお陰かまったく痛みを感じなかった。ただいっさいは過ぎていった。こんな状態で書いた文章を全世界に公開されてしまうことに罪悪感が生まれてくる。iPhoneに落とす親指だけが正気を保っているように淀みなく動いていて、ぼくはそれを少し離れたところからぼんやり眺めているような感覚だ。でもそれは、もしかしたら本を読んでいる瞬間の感覚とある意味でリンクしているのかもしれない。自分の身体を差し置いて、頭だけが小説世界に埋没していくようなあの感覚は、もしかしたら。今自分は何か大事なことを書いた気がする。だけどこれは消える寸前の意識が見せている幻である気もする。

 診察後に受けた吸入器の水分が滞留しているからか、息を吸うたびに鼻の奥がツンと痛い。泣いているときみたいだ。それも、もう自分の意思では止められないくらいのやつ。調剤薬局に併設されているドラストでポカリと一口サイズのシュークリームを買った。食欲はまったくないけど、目の前にあれば口に放り込むだろう。
 一人暮らしの部屋が待っている。仕事(会社員の方)が待っている。このエッセイの直しも待っている。 今はまだ取りかかれないかもしれない小説の締め切りだって設定されている。孤独を噛み締める暇もなく、ぼくはきっとシュークリームをポカリで飲み下して、薬を飲んで、ちょっと横になった後は誰かに何かを送信したり、受信したものを確認しては返信をすこし寝かせてみたりするのだろう。