ちくま新書

時間のフィールドワーク

石岡丈昇×伊藤亜紗(後編)

後半は、おふたりの関心の重なる「時間」の概念について、語り合いました。

伊藤
 ぜひお話ししたいのは、時間の話なんです。
 『タイミングの社会学』でも「時間」がキーワードになっていましたし、『エスノグラフィ入門』でもオスカー・ルイスの「典型的な1日」の話がありました。やっぱり、時間を切り口に生活を見ていくのが、石岡さんのひとつの特徴だと思うんですよね。
 私自身も時間はすごく大事だなと思っていて、博論(『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』として書籍化)でポール・ヴァレリーっていう詩人の詩を分析したときに、私はそれを時間論として分析したんですよね。
 ふつう、詩を言葉として分析すると思うんですけど、時間の設計だとして分析したんです。時間を通して、作者と読者の関係が生まれる。どういうふうにリズムをつくっていくと、相手が乗ってくれるか。
 さっきの客引きじゃないですけど、詩は誘惑のひとつの装置でもあるので、そういう意味で、時間は私にとっても大事な視点なんです。

†社会学的に時間をみる
石岡
 時間について言うと、『エスノグラフィ入門』では「生が生活になる」(174ページ)という表現をしています。ボクサーであれば、試合をして、ファイトマネーもらって食っていってるわけです。食っていくということには、たんに生きてるだけじゃなくて、生きることを可能にするリズムのようなものがある。
 なんでリズムが生まれるかというと、そこに一定程度のパターンがあるからですね。パターンがない生活を現代人は美しいと考えてしまうんだけれども、じつは、明日どうなるかわからないようなパターンがない生活はむしろ地獄なんだということを、フィリピンでの調査を通じて知りました。
 貧困というのは、そのパターンがコロコロ変わることなんです。何かしようとしたら雇い止めになったり、お金が尽きてしまったり、家が立ち退きになったり。パターンが崩れていて、生の「いま」だけが登場しつづける。
 だから、生は、時間的パターンという型をともなうことで、はじめて生活になる。そのパターンがあるから、人間はちょっとだけ先のことを考えることができるというか、未来を展望できるようになるわけです。
 そのパターンが壊されて「明日どうしよう」って話になると、視点が目の前の現在のみに釘付けになってしまう。先を見通すことが、むずかしい。安定した生活を享受している人たちが、自分たちの生活の条件を暗黙のうちに前提にしてしまうと、「彼らは近視眼的に生きている」「その日暮らしを積極的にしてしまってる」という解釈をしてしまうんだけど、そうではないんですよね。
 そもそも人間は、この型を持つがゆえに先を展望できる。あるいは型を持つがゆえにリズムが生まれる。だから貧困というのは、パターンの崩壊の問題である。「生が生活になる」というフレーズには、このような意味を込めました。
 伊藤さんも、名著『どもる体』に書いてますね。第5章で、「なぜ歌うときはどもらないのか」という話があります。「ノる」というのは、自分の運動の主導権が、自分でないものに一部明け渡されていることだという議論が、展開されています。
 伊藤さんは、その人に起きている世界をそのまま見ようとする。どういうふうに、その人が調整したり工夫したり、その場を乗り切ったりしてるのか。矯正の対象とか、直さなきゃいけない悪い何かとか、介入論的な感じじゃないわけです。
 歌のケースでも、「どもる」がすごく丁寧に、具体的に書かれていく。どもるときに、カラオケで歌ってるときにはどもらない。それは、よく言われるじゃないですか。この点について、ヴァレリーのリズムや韻の話とも接続されていて刺激的です。伊藤さんの『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』とつながってるんですよね。
 陳腐な言い方だけど、さすがというか。『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』については、結章のすぐ前に置かれた重要な章のタイトルが「生理学」ですからね。詩の研究で、生理学で締めるとか、やはり伊藤さんはタダものではない。
 ひとつ言っておくと、「いまを生きろ」って言いがちじゃないですか。僕も思わず言っちゃう。でも、いまの固有性を知るためには、過去のパターンとのすり合わせが必要なわけです。
 ライアン・ガルシアっていう、体重オーバーで世界中からバッシングされたボクサーがいます。ガルシアの左フックは、ほかの人にはない角度とタイミングで来るんです。「こんなものを見たことがない」となるのは、過去にいろんなフックを見ているからなんです。過去のフックのパターンとの対比で、ガルシアのフックが見えてくる。パターンとかリズムとの関係が出てくる。
 リズムの問題を考えてみると、過去がどういまと出会って、いまがどう過去に回収されているか、哲学的にも繋がってくるわけです。ここの問題を、たぶん『どもる体』のなかで、どもる人々がカラオケで歌うっていうことと、伊藤さんがずっと取り組んでこられたヴァレリーであったりとか、さまざまな哲学美学の研究とかと結びつけている。
 こんな理解で、いいですか?

伊藤
 恐縮です。なんて言うんでしょう、石岡さんのリズムの分析を見て、それぞれの人間に与えられている条件を考えていくような視点が、社会学者だなと思うんですよね。時間や予見可能性のパターンが、均等に与えられてない。力を持ってる人が時間を支配していて、力を持っていない人はそれに翻弄される側だと。
 それはボクサーの話でもそうですね。フィリピンのボクサーは「かませ犬」。

石岡
 100回の練習より1回の実戦のほうが学べたりしますよね。対人競技だと相手とのマッチアップもあるから、手塩にかけて育てたいボクサーがいると、大切に、プロモーターが相手を組んでいくわけです。その相手役として、フィリピンのボクサーが選ばれて、かませ犬的に使われる。

伊藤
 急にマッチが決まったりとか、向こうの理由で延期になったりとか。体重を落としていくのはすごい大変なことなんだけれど、ボクサーもやっぱり予見可能性に翻弄されているんですね。
 日本とフィリピン、あるいは世界的なボクシングのヒエラルキーが、ボクサーが体重をコントロールする時間をコントロールできないっていうところに集約されてる。そう見出されたのは、社会学者だなって。そういうふうに時間が広がっていくんだなと思ったんです。
 そういう視点をもらっていろいろなものを見ていくと、見落としていたけど、そういうことは私のまわりにもあるなって思いました。

†時間を盗む
伊藤
 ジェローム・エリス(JJJJJerome Ellis)という、吃音で黒人のミュージシャンがいるんです。かれがこの8月に、仲間と一緒に、ニューヨークのホイットニー美術館に大きい看板のアート作品を出したんです。3カ国語で、テキストが書いてあるんですよね。
 英語で書いてあるのは、「stuttering can create time(吃音は時間をつくれる)」。どもるって、パターンから外れてしまうことなんです。聞いてる人からしたら、しゃべり言葉の文章はこう来るんだろうみたいな流れが止まっちゃう。
 だから、よくもわるくも、現在形、いまを生きる状態になっちゃうんですよね。それは、時間に追われているように生きている現代人にとっては、当たり前の時間の流れが止まるわけなので、かえって相手の話をじっくり聞く機会になるかもしれません。でも、エリスは、時間の停止を、もっと長い射程でとらえます。彼にとっては、それは、先祖たちと対話する時間でもあるんです。
 エリスの先祖は、奴隷としてアメリカにつれてこられた黒人です。黒人は、時間を奪われた存在だった。時間の自由がないから、どうやって主人から時間を盗むか常に考えていて、時間を盗んで恋人に会いに行くとか教会に行くとか、そうすることが抵抗だった。時間を盗むイコール自由を獲得する、というということだったんですよね。

石岡
 なるほど。

伊藤
 「過去の経験が現在まで」という話がありましたけど、エリスの場合は、それをさらに拡張して、先祖との対話を含めて、そういう時間感覚を持ってる黒人である自分が、どもる。
 それも含めて、「吃音は時間をつくれる」っていうことで、ある種のパターンから落ちちゃってるんだけれども、同時に、反対側から見ると、支配されてきた時間を取り戻していることでもあるというふうに、ジェローム・エリスは言っているんですね。
 そういうふうに考えると、社会学的な視点みたいなものも、やっぱりひとりの経験のなかに見えてくる。

石岡
 「時間泥棒」って、よく企業の上の人が労働者に向かって言いますよね。大学でも言われます(笑)。
 でもたしかに、「時間をいかに主人から盗むか」という視点はありえますね。フィリピンでも、時間を盗むための人々のやり方というふうにみると、それはそれでおもしろいエスノグラフィが書けそうな気がします。

†車のなかの不思議
伊藤
 時間といえば、フィリピンを旅してる車の中の時間を思い出します。基本的にはマニラにいたんですけど、バギオという都市まで、往復10時間ぐらいの旅する時間がありました。あの時間は楽しかったですよね。

石岡
 車の時間、好きなんですよね。僕が前で、うしろに伊藤さんが座ってるんです。うしろに振り向くような感じで会話してると、なんかまた違う。
 バギオという地方都市は、山の上にあって、ちょっと涼しい。それで、20世紀に入って避暑地として開発された場所ですね。最後は、そこに行きました。
 山道をくねくね下りていくんですけど、そのときにまた会話を僕が伊藤さんと始めて。そのときに、伊藤さんが「存在関係」って言ったんですよね。覚えてます?

伊藤
 覚えてます。

石岡
 その存在関係ってなんですかと聞いたら、映画監督の濱口竜介さんとの会話の中で出てきた言葉だと。人間関係というと、たとえば僕と○○さんは、どういうふうな形で出会って、現在はどんな関係にあるのかということなどを捉えますよね。
 そうじゃなくて、存在関係は、まさにどういう配置で人が座ったりとか、体と体でどういう向きを取り合って、どういう配置の中で人と人とが関係を取り合うかとか。それは人間関係じゃなくて、存在と存在の関係だから。「伊藤語録」では、存在関係と呼ぶっていうことなんですよね。
 濱口監督の『ドライブ・マイ・カー』もそうなんですけど、車の中だからこそ紡がれる語りがある気がします。インタビューって「interインター/viewビュー」だから、たがいに向き合うイメージがある。だけど、車のなかだと、同じ方向を向いているし、そういう感じのほうが話しやすいこともある。
 新しい話が生まれるときの配置の問題を、存在関係というのが印象的だなと。

伊藤
 おもしろいですよね。車の中で前後に並んでると、独り言ぽくもあるじゃないですか。でも、けっこう、しっかり受け止められる感じもある。自分と対話しながら、石岡さんとも対話してる。すごい不思議な感覚になるんですよね。

石岡
 当然ほかのスタッフの方もいるので、会話も開かれてる。なんか人と人との話っていうのは、話の中身だけじゃなくて、まさに体の配置というか、そういうものの関係の中で出されていく。とても良い時間でしたね。

†文学は時間
伊藤
 『エスノグラフィ入門』に本を読む話がありますね。引用では本の一部が抽出されているけど、それを引用だけで読むのと、それを通して読むのは全然違う経験なんだと。ドライブしながら行くのと飛行機で行くのとでは、通る場所が違うみたいな。

石岡
 そうそう。今週の日曜日からトルコ経由でウィーンに行くんです。異国の街中で移動する場合、電車に乗ると早いんですけど、知らない街を自転車で移動するのが好きでして。駅と駅の点で移動して消えてるところが、つながってくるんですね。点じゃなくて線で見えるというか。
 その線も、ひとりで移動するだけじゃなくて、たとえば伊藤さんとふたりで移動すると、またちがうものが見えてきたりして。なんていうかな、飛ばし読みも魅力があるし、飛ばさないでコツコツ読むのも、線であるがゆえにラインが開けてくるようなものとかもあって。そういうのも、おもしろいですよね。

伊藤
 石岡さん、小説は読まれるんですか?

石岡
 本を読むの遅いんですよ。とくに小説は、身体を入り込ませないと読めないじゃないですか。入り込むためには、入り込む呼吸が必要で(笑)。それまでに、時間がかかるんですよね。入って乗ったときにはもう一気に。
 伊藤さんはどうですか?

伊藤
 博論の研究が文学なのに、アートの教員になった理由も、実はそこにあるんです。
 最初、非常勤で文学の授業してたんですけど、引用しか取り上げられないので、ほんとに教えられないんですよね。この引用にたどりつくまでに10時間読んで、入り込んだ身体になって読まないと意味がないのに、どうしてもそこしか触れられない。
 そのことに絶望して、文学のことを授業で取り上げるのはやめようと。それでアートの授業になったんです。文学って、時間だなと思います。

石岡
 飛ばし読みできないですもんね。

†本を信用してない
石岡
 一緒にいるとボロっとした会話がおもしろくて。これ、聞いてもいいのかな? 伊藤さんが、「本を信用してないんですよ」って言ったんです。

伊藤
 言いましたっけ?

石岡
 スクオッター地区にいたときのことかな。伊藤さんは、現場に行ったり実際に同じ活動をやらしてもらったり。あとは、『見えないスポーツ図鑑』で試みられているように、スポーツの体験を翻訳したり、そういうふうにからだを使ってますよね。たぶん、発想の足場みたいなものを、文字じゃないところに置かれようとしているのかなと。

伊藤
 どういう趣旨で、そのときに本を信用してないって言ったか、ちょっと覚えてないんですよね。石岡さん、記憶力がすごい。言ったことはぜんぶ「心のノート」に(笑)。
 すこし説明してみると、自分の専門が美学という学問で、感性を扱うんですね。いわゆる知性が第一級の認識能力だとすると、感性は第二級の認識能力だとされていて。非言語的ということですね。
 たとえば人に会って、その人にすごい魅力を感じるとか。なんでって言われると、理由は言えないんだけど、はっきりと感じている。そういうものによって人の身体が動くと思うんです。
 言葉で変えられる部分は人間の上澄みの部分で、下の感性の部分は、よくも悪くも保守的な部分ですね。そこに手を突っ込んでものを考えていかないと、すごく表面的にいろいろ終わってしまう気がして。
 洋服変えるんじゃなくて手術しろっていう、けっこう暴力的な欲望だと思いますけど。そういう、ちゃんと人間を考えたいっていうモチベーションはずっとあります。

石岡
 なるほど、聞けてよかったです。
 あんまりからだのことばかり言うと、からだを本質化してしまうから僕なりに注意はしてるんですけど、たとえば味覚は保守的じゃないですか? もっといろんな国の料理を楽しめればいいのに、僕は、インド系のスパイスが駄目なんですよね。結局それで味噌汁を欲してしまう。
 味噌汁を欲するのは、生物学云々というよりも、社会文化的にできあがった自然のような部分としてあって、そういうところに届くようなものを自分も描きたいなと思います。

伊藤
 それで言うと覚えてるのが、車に乗ってバギオに行く途中、1回ちょっと高速を降りて食べた夕飯。定食みたいな、自分が食べたい料理をとって食べるスタイルの。
 あれ、なんだったのかな? 石岡さんが、料理についてきたピンクのソースを私にくれたんですよ。

石岡
 覚えてない(笑)。

伊藤
 ピンクのタルタルソースみたいな。私、「ありがとう」と言ったと思うんですけど、そのソースをもらうときに、プレートの、すごいはじっこに乗っけたんですよ。そしたら、「警戒してますね」っておっしゃった。
 「このひと怖い」って(笑)。言葉よりも、その下のからだを見てる。

石岡
 ああ、そうかもしれない。おもしろいですね。

伊藤
 そろそろ時間ですかね。『エスノグラフィ入門』は、エスノグラフィの方法論について書かれた本でありながら、他のどんな石岡本よりも生々しくて、方法論を超えた言葉にできないもの、フィールドにいるときのモードといいますか、まさに「踊っている感じ」を体感できる本だと思います。
  ということを、実際に「フィリピンバージョンの石岡さん」を見てきた私が証明します(笑)石岡さんとフィリピンですごした一週間は、本当に私にとって一生のよい思い出です。石岡さん、本当にありがとうございました。

石岡
 伊藤さん、ありがとうございました。今日の話の中でも出ましたが、伊藤さんは、人の中にすっと居られるところが、本当にフィリピンでの時間では印象的でした。たたずまい、ですね。普通に通りを歩いて、食事をして、闘鶏を見て、ボクサーのお宅にお邪魔する感じです。ふるまいに過剰さがないのが、僕はとても好きで。
 過剰にならないというのは『エスノグラフィ入門』のひとつのテーマだなと、あらためて思いました。

伊藤
 ウィーンから帰られたら、またいろんなお話をしましょう。今日はどうもありがとうございました。

石岡
 ありがとうございました。

(2024年9月19日、代官山蔦屋のイベントをもとに構成しました)

2024年11月1日更新

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石岡 丈昇(いしおか とものり)

石岡 丈昇

1977年、岡山市生まれ。専門は社会学/身体文化論。日本大学文理学部社会学科教授。フィリピン・マニラを主な事例地として、社会学/身体文化論の研究をおこなう。著作に『タイミングの社会学』、『ローカルボクサーと貧困世界』、共著に『質的社会調査の方法』など。

伊藤 亜紗(いとう あさ)

伊藤 亜紗

1979年、東京生まれ。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。同リベラルアーツ研究教育院教授。専門は美学、現代アート。主な著作に『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社選書メチエ)など。一連の体をめぐる著作で、2020年サントリー学芸賞を受賞。

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エスノグラフィ入門 (ちくま新書, 1817)

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