3つのレイヤーで映画を分析する
では次に、映画全体の構成に目を転じてみよう。本作は企画の初期に、脚本家に参加してもらっていたようだが(※1)、最終的には富野自身が脚本も執筆している。非常に情報量が多い本作だが、それは本作が主人公の行動を追うだけの単線的な内容ではないからだ。
本作は大きく3つのレイヤーでできている。ひとつはネオ・ジオン軍と連邦軍の戦争というストーリー面での枠組みとなるレイヤー。もうひとつが、アムロとシャアの対立というドラマ面での枠組みとなるレイヤー。そしてそこに実質的主人公としてのクェスのレイヤーが重なっているのである。そして、それぞれのレイヤーごとに必要なエピソードが配置されているため、情報量が詰まっていると感じられるのである。
ちなみに若い世代のキャラクターを主人公に据え、アムロとシャアをその側に配置するという趣向は既に『機動戦士Zガンダム』でも試みられている。井上伸一郎(『月刊ニュータイプ』元編集長)と庵野秀明は対談で次のように指摘をしている。
井上 (略)それ(引用者注:『Zガンダム』)をもう一回たぶんキチンとやり直したかったのが、『逆襲のシャア』だろうし、(略)『Z』でちょうど、やりたくて彼(引用者注:富野)が出来なかったものが、結構凝縮されてあそこで表現されているんで、ああこれが本当の『Zガンダム』なんだろうなあ、と思いながら私は見てました。
庵野 やはりそうですよね。僕もそれをすごく感じます。(略)(引用者注:『Zガンダム』を)今観ると結構面白かったんです。当時「嫌」だなと思ったところが全部クリアになってですね。(略)その面白さが何かなと思ったら、ああ、『逆襲のシャア』の、素材なんだ、これ、というところで、すごく楽しく観れたんだと思います。(※2)
『Zガンダム』で試みられた要素が『逆襲のシャア』に反映されているであろうことは、『Zガンダム』のサブアタックタイトルとして用意された「逆襲のシャア」が、本作で正式にサブタイトルとして採用されていることからもうかがえる。
では具体的に「戦争」「アムロとシャア」「クェス」の3レイヤーに注目して『逆襲のシャア』の物語の構成を分析していこう。分析にあたっては、アメリカの脚本家シド・フィールドが『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと――シド・フィールドの脚本術』(フィルムアート社)でまとめた、三幕構成を使った構成術を補助線に使用した。
シド・フィールドは映画全体を第1幕「状況説明」、第2幕「葛藤」、第3幕「解決」に分ける。そして第1幕の終盤に、第2幕に向けてストーリの方向を決める出来事「プロットポイント1」が、第2幕の中盤に折り返し点としての出来事「ミッドポイント」、第2幕のラストに、第3幕の解決に向かう出来事としての「プロットポイント2」が配置される。シド・フィールドの三幕構成は、実際にはもっと精緻な構成術だが、ここでは『逆襲のシャア』の物語構成を確認するための、‟物差し”として使用するだけなので、以上のポイントだけを参考として用いることにする。
プロットポイント1
まず「状況の説明が終わり、物語のセッティングが完了して、第2幕に向かう」というプロットポイント1に相当するエピソードはなになのか。
「戦争」という面で考えれば、映画開始10分ほどが経過した、ネオ・ジオンが5thルナを地球に落とし被害が発生したというエピソードがそれだと考えられる。ここまでに、ネオ・ジオン軍は、地球に魂を引かれた人々=連邦政府幹部の粛清を掲げていること、連邦軍はそれを止めようとしていること、という戦争を支える対立の構図が説明されている。またその状況で、ネオ・ジオン軍が作戦を成功させたことで、「ネオ・ジオンと連邦の和平交渉は成り立つのか」「ネオ・ジオンは果たして信用できるのか」という疑問が浮かび上がり、第2幕の前半を牽引することになる。
一方、クェスの物語のプロットポイント1は、少し遅い40分ごろ。宇宙に上がったクェスは、同年代の少年ハサウェイと仲良くなる。2人の乗ったシャトルは、ハサウェイの父ブライトが乗る軍艦ラー・カイラムに救助される。ここでクェスはアムロとも出会う。しかしサイド1のロンデニオンで、クェスはシャアと出会い、アムロやハサウェイとも袂を分かってシャアのもとへと走り去る。ここまではクェスがどんな少女であるかを家族やハサウェイを通じて描いてきたが、このポイントから第2幕に入り、クェスとシャアの物語が始まるのである。
ミッドポイント
では次に折り返し点である、ミッドポイントはどうか。これは戦争のレイヤーもクェスのレイヤーも同じタイミングで、ちょうど全体尺の半分に近い60分前後で描かれるネオ・ジオン軍のルナツー基地襲撃という事件がそれに相当する。
ネオ・ジオンは5thルナ落下の後、地球連邦軍と和平交渉を行い、軍隊の武装解除を約束する。しかし、それは偽りの和平だ。武装を解除したかのように装い、連邦軍ルナツー基地に接近したネオ・ジオン艦隊は突如攻撃に転じる。これを陽動として、本隊はかつてネオ・ジオン軍が本拠としていた小惑星アクシズを奪取。アクシズを地球へ落下させるための作戦を開始する。偽りの和平が破られ、この折り返し点を越えると、クライマックスのアクシズ落としへと向かって物語が一気に展開していくことになる。
戦争映画として見たとき、初戦(5thルナ攻防戦)で連邦軍が負け、和平交渉したかに見えたが、第二回戦(ルナツー基地襲撃)でも連邦軍が負け、いよいよ後がない、という形で映画が盛り上がっていく構成になっているのがよくわかる。
そしてクェスの転機もまた、このルナツー襲撃の中で描かれる。ネオ・ジオン軍でパイロットとなったクェスは、パイロットとして抜群のセンスを見せる。その彼女が初陣として出撃したのが、ルナツー襲撃だった。彼女はこの戦いの中、それとは知らずに父アデナウアーが乗った巡洋艦クラップのブリッジを攻撃し、父を殺してしまう。クェスはその直後、理由のわからない不快感に苛まれるが、彼女は間違いなくその瞬間に、戻ることのできない‟ある一線”を越えてしまったのである。これがクェスの物語のミッドポイントである。
プロットポイント2
では2幕目終盤にあり3幕目の内容を方向づけるプロットポイント2は、どうだろうか。
「戦争」のレイヤーの第2幕後半は、アクシズの落下を止められるかどうかをめぐって展開する。当然ながら、プロットポイント2は「最後の決戦に向かおうとする」エピソードが相当することになる。具体的には、アクシズへの第一次攻撃が不発に終わり、最終手段である第二次攻撃を実行するためのブリーフィングのシーンがプロットポイント2に当たる。およそ85分ごろのポイントだが、ここでブライトが「すまんが、みんなの命をくれ」といい、ラー・カイラムのクルーはそれに敬礼で応える様子が描かれている。
クェスの物語のプロットポイント2は、ブライトの台詞の少し後の約90分ごろ。出撃前にシャアを「あたし、ララァの身代わりなんですか?」と問い詰めるシーンがそれにあたる。
ララァはいうまでもなく、『機動戦士ガンダム』でシャアが見出したニュータイプで、当時はシャアの恋人でもあった存在。しかしララァは、同じニュータイプとしてアムロと深く精神的な交歓を行い、シャアとアムロの間に引き裂かれる形で死に至っている。クェスはギュネイからこの経緯を聞かされ、シャアを問いただしに来たのだ。
「大佐のためなら死ぬことだってできる」というクェスに対し、シャアは「わかった。私はララァとナナイを忘れる」とウソをつく。ナナイは、作戦参謀兼ニュータイプ研究所所長で、現在のシャアの片腕かつ恋人である存在だ。このシャアのウソをクェスが受け入れたことで、クライマックスにおけるクェスの運命は決したともいえる。その点でここがクェスのプロットポイント2であろう。
こうしてみると、プロットポイント1こそ、「戦争」と「クェス」のレイヤーで大きく時間がずれているが、そこを除けばミッドポイントも、プロットポイント2も、ともに非常に近い位置にエピソードが配置されていることがわかる。映画の節目に相当するポイントに、2つのレイヤーの出来事が近接して置かれているからこそ、上映時間以上に情報が詰まって感じられるのだろう。
シャアとアムロの対立はどう構成されたか
ではシャアとアムロのレイヤーのエピソードはどのように配置されているのか。こちらは「物語の大枠」であって、物語の展開をリードするものではないので、三幕構成の各ポイントに沿ってエピソードは配置されていない。例えば「戦争」のレイヤーのプロットポイント1、「クェス」のレイヤーのプロットポイント1の両方で、ふたりは意見を戦わせ、それぞれの政治的な立ち位置を明確にすることで、物語全体の大枠を明確に示している。
この映画序盤で示されたふたりの「政治的な大枠」が終盤に至ると変化して、より個人的な対決の色が濃くなる。このきっかけとなるのが2幕目後半。プロットポイント2の前後からだ。
ギュネイは2幕目後半に、シャアが今回の戦争を起こした動機について「ララァをアムロに取られたから、大佐はこの戦争を始めたんだぞ」という話を持ち出す。そしてプロットポイント2の直後には、アムロのνガンダムに使われている新しいフレーム、サイコフレームの技術が、実はネオ・ジオン軍からリークされたものであることが明らかになる。
そして3幕目に入って、シャアの口からこれらの一種の‟答え合わせ”に相当する台詞が語られる。それが「命が惜しかったら、貴様にサイコフレームの情報など与えるものか」「情けないモビルスーツと戦って勝つ意味があるのか?」という台詞だ。
シャアは、ララァを奪われたという感覚も含め、アムロに負けたということにこだわりがあり、その劣等感を払拭したいがために、アムロとの対等な勝負と勝利にこだわったのである。このシャアの情けない本音が最後の最後に明かされるところに、本作のおもしろみがある。
3幕目に入り、クェスの物語が起こるべくして起こる悲劇でケリがつくと、こうしてシャアとアムロの個人的な因縁が前面に出てくるのである。このようにシャアとアムロの物語は、映画序盤の政治的立ち位置が描かれ、映画終盤はその政治的大義の裏側にある個人的因縁にフォーカスが当てられて描かれるという構成になっている。
クェスがあらわす作品の輪郭
このように物語の全体構成を見渡してみると、クェスというキャラクターがどのように演出されていたかもクリアに見えてくる。端的にいうとクェスは、ポイントとなるシーンで必ず方向性が変わるという形で演出が施されている。
冒頭の10分間で見たとおり、家出中に左向きに逃げていた彼女は、家に連れ戻され、右向き方向で宇宙へと向かうことになる。
次に彼女の方向が変わるのが、偶然ラー・カイラムに乗り込むことになり、アムロと初めて接触するあたり。クェスはモビルスーツデッキで画面左側に進もうとするが、アムロが現れて「この先は、民間人は入らないほうがいい」と彼女を遠ざけ、クェスは右側へハケていく。おもしろいのはその翌日、クェスは同じようにモビルスーツデッキに向かうが、今度はチェーンに「民間人が入ってはいけないのよ」と注意されることになる。このときクェスは「あなたこそなんでここにいるの?」「あたしは、ニュータイプだって言われているアムロに興味があったのに、なんであなたは邪魔するの?」と食ってかかる。しかし、このときも彼女は前日同様、画面右側へとハケざるを得なくなってしまう。
ここではアムロの方向に接近しようとしても、そこから遠ざけられてしまうプロセスが、方向性の変化として描かれている。そしてこの次に出てくるクェスの方向転換は、クェス自身の翻心によるもので、これが彼女の物語の本格的な始まりとなる。
スペースコロニー・サイド1のひとつロンデニオンに帰港したラー・カイラム。アムロ、ハサウェイとクェスは、ドライブに出かけることになる。ところがそこに極秘の和平交渉を終えたシャアが、馬に乗って姿を現す。
このときアムロは、画面右側から左に向かって車でシャアを追いかける形になる。そのため同乗しているクェスも同様の動きをすることになる。やがてアムロがシャアに追いつき、カメラがふたりを正面から捉えたところで、アムロは車を乗り捨て、馬上のシャアに飛びかかる。ここでアムロのベクトルは、それまでの画面左向きから画面右向きへと転換する。
追いかけあいながら議論を繰り広げるアムロとシャア。クェスはそれを聞きながら、むしろシャアの意見に深く納得していく。「地球に残っている連中は地球を汚染しているだけの、重力に魂を縛られている人々だ」というシャアの言葉は、彼女にとって、政府高官でもある父や不在の母、あるいは愛人が、いがみあっている理由をうまく説明してくれたように感じたのだ。
アムロとシャアは草原で取っ組み合い、アムロがシャアを投げ飛ばし、ふたりは距離を置いて対峙する。アムロが拳銃を抜こうとしたその時、クェスが動く。クェスはアムロを追い抜くような形で、アムロの背後にあたる画面左側から右側へと走り去る。この時に、クェスはアムロの手を打ち、取り落とした拳銃も奪っていく。そして画面右に到着すると、左側にいるアムロに向かって拳銃を構える。こうして画面の中でシャアと同じ右側に立ったクェスはそのままシャアとともに、画面右側へと走り去る。アムロに接近しようと思ったが果たせず、そのかわり、自分を理解してくれそうなシャアのもとへと走るクェス。この翻心が、方向性の転換として具体的に描かれているのである。
そしてミッドポイントにおいてもやはり、クェスの方向性の転換が描かれている。ネオ・ジオンの艦船は、画面右側から左方向に向かってルナツーに接近してくる。初陣に臨むクェスも、左に向かってモビルスーツヤクト・ドーガで発進する。そして初めての戦闘を行っている間に、自然と方向性がターンし、画面右方向を向くようになる。そしてルナツーの表面に沿って飛行していくと、彼女の眼の前に父アデナウアーの乗る巡洋艦クラップが見えてくる。ブリッジめがけてためらいもなく引き金を引くクェス。
ここでポイントなのは、「父を殺したから方向性が変わった」のではなく、「方向性が変わった後に、父を殺すことになった」という点だ。クェスはシャアのもとに走った時から自分で自分の人生を選択しており、出撃に至るのはその自然な帰結である。そして、初陣の中、徐々に兵士としての自覚を持ったことで、それとは知らないままに父を殺すに至ってしまったのである。アムロやシャアに興味を持ったことからもわかるとおり、クェスは周囲の人間に父性を求めているのだが、その結果として、尊敬はしていなかったものの、実の父を自分の手にかけてしまうというのは皮肉な顛末といえる。
そして2幕目のプロットポイント2の直前にも大きな方向転換が描かれている。シャアの側にいるナナイに、いらだちを深めていくクェス。ギュネイはクェスを連れ出して、シャアがナナイと付き合いながらも、その心は未だにララァに惹かれているのだ、という解説をする。
この話をするために、ギュネイは宇宙用スクーターでクェスをつれて画面左側へと連れて行く。さらにギュネイは、下方向へ移動し、今は使われていないアクシズの旧市街へとクェスを連れて降りていく。シャアの心の奥底に触れる上で、この下方向へと深く降りていくふたりの移動はとても効果的に使われている。
しかし、クェスはギュネイの語るシャアの‟本当の姿”に関する話を切り上げ、「そんなことを言うから若い男は嫌いなんだ!」と画面右上へとハケていく。この方向転換の直後、クェスは「あたし、ララァの身代わりなんですか?」とシャアを問い詰めることになり、それに対しシャアがウソで応じたことが、彼女のプロットポイント2となる。
以上のように、クェスは実質的主人公として、物語の展開と緊密に結びついた方向性のコントロールによって演出されている。これによって『逆襲のシャア』のストーリーは、くっきりとした輪郭をもって観客に迫ってくることになった。
【参考文献】
※1 庵野秀明責任編集『逆襲のシャア友の会[復刻版]』カラー、2023年。内田健二インタビューによる
※2 『逆襲のシャア友の会[復刻版]』