富野由悠季論

〈18〉シャアの切なさはどこから生まれるか――詳解『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』

富野由悠季とはどんなアニメーション監督か。「演出の技」と「戯作者としての姿勢」の2つの切り口から迫る徹底評論! 書籍化にさきがけて本論の一部を連載します。 連載版の最終シリーズ〈詳解『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』〉第3回。代表作たるゆえんを解き明かす全4回。(バナーデザイン:山田和寛(nipponia))

 

アニメ業界の風刺?

 ここまでは富野が自らの演出術をいかに駆使して『逆襲のシャア』を語ってきたかを見てきた。では、戯作者・富野は『逆襲のシャア』でなにを描こうとしたのか。

 『逆襲のシャア』ではマクロの状況(政治的状況)とミクロの心情(シャアの内面)が複雑に絡み合って描かれている。この絡み具合が、本作を類例のない作品としていることは間違いない。

 まずマクロの状況を改めて確認しよう。『逆襲のシャア』は、ネオ・ジオン総帥となったシャアが、地球に小惑星アクシズを落とす作戦を実行する、という展開が大きな縦軸となっている。この作戦の背景には、スペースコロニーに暮らす多くの宇宙移民が、地球に本部を置く地球連邦政府によって支配されている非対称な構図がある。シャアは宇宙移民の権利を求め、‟重力に魂を引かれた人々”(=地球にこだわり、宇宙移民の生活やメンタリティについて想像することをしない人々)を、隕石落としによって一掃しようとしている。

 隕石を落とせば地球は‟核の冬”の状態になり寒冷化して、人が住むことはできなくなる。シャアは地球環境を破壊することで、強制的にその状況を作り出して、人類が宇宙に軸足を置かざるを得ない状況を作り出そうというのだ。

 これに対し連邦軍ロンド・ベル隊のパイロットであるアムロは、現状の連邦政府をよしとはしていないが、シャアの性急で強硬的な手段を止めるために戦うことになる。

 このマクロな状況には以下のような読み方もある。

 サンライズなり角川(書店)なりの人達、ま、愚民の人達がスポンサーの名の下に安全圏で作品を作れと言ってるわけですね。

 で、一応、富野由悠季というシャア・アズナブルは「よかろう、作品は作ってやろう」と。「だが、お前たちが全く望んでいなかったようなものを、お前たちの安全圏にぶち込んでやるぞ」と。それで『逆襲のシャア』を作る、とそういう話ですよね。(略)

 それに対してアムロ・レイというもうひとりの富野由悠季が出てくるわけですよね。そのもうひとりの富野由悠季は「これはいくらスポンサーがいて、愚民がお金を出して作れと言ってるものでも、これはアニメーターなり、現場のスタッフが飯を食う種なのだから、一生懸命やってみんなが幸せになれる作品にしなきゃダメじゃないか」という偽善ですよね。(※1)

 この見立てを語ったのは『少女革命ウテナ』などで知られるアニメーション監督・幾原邦彦。一種の私小説というか、戯作者・富野が日常の中で感じていることを、劇中の道具立てに置き換えて、ある種の‟本音”を語っているという読み方である。なお、「愚民」というのは、作中でこの言葉が使われていることを受けての言い回しだ。

 この見立てが正しいかどうかはさておいても、富野のものの見方の一端は捉えているのは確かだ。

 個人的な体験談になるが、過去に富野が不快感を露わにする瞬間を見たことがある。そこには共通点があって「ルーティーンワーク」「習い性でやる仕事」を見せられた時に富野は不快感を示す。なにか少しでも物事を前進させる意思のない仕事の進め方に対して、富野は怒りを隠さない。

 ただ一方で、前進の意思がありながらも、最終的に「身過ぎ世過ぎのためには、こうするしかない」という形で保守的な選択をせざるを得ないことについては、富野は理解をする気持ちがある。

 この仕事に対する富野の2つの姿勢が、シャアの連邦政府へのいらだちと、アムロの穏当な姿勢に反映しているという見方は、決して強引な見方ではないように思われる。ただ、あるインタビューの「近視眼的な地球連邦政府がアニメのスポンサーに見えるという話もあります」という質問について富野はこう答えている。

そういう切り口でこられるなら、こういうお返事の仕方になります。結局は、その時の作り手が感じていたリアリズムがどうしても作品の中に入ってくる、ということです。(略)今言われたような図式論にはまって見えるのも、自分が本能的に察知していた世の中の雰囲気というものが、自動的に出てくるものであったわけです。ただ、僕の好みだけで話を作っていたらそれではきっと観客の興味を引っ張ることはできていなかったと思います。自分というものを経由しているけれど、それは好みではなく、リアリズムだったから、スポンサーにも見えるという話にも繫がるんです(※2)

 作品にリアリズムを導入しようとしている以上、自分の世間に対する感覚が意識・無意識のうちに反映されており、だからこそそのような読解も可能になっている、というのがインタビュー時点での富野の考えのようである。逆にいうと、むしろそういう見立てを、わざわざ「好み」――ここでは‟自分本位の企み”という意味合いだろう――として作中に意図的に取り入れるようなことはしていない、ということだ。このあたりは「映画とかアニメっていうのは作り手が好きに作っていたらアニメになりません。」(※3)と様々なところで発言している富野らしい発言といえる。

リアリズムを反映した対立

 さて、このような地球連邦政府の旧弊な思想と、それを一気に一掃しようとするネオ・ジオンのマクロレベルでの対立は、シャアとアムロの台詞で次のように表現されている。

 ロンデニオンでシャアはアムロに対し、「地球に残っている連中は地球を汚染しているだけの、重力に魂を縛られている人々だ」「世界は、人間のエゴ全部は飲み込めやしない」と、隕石を落とす理由を語る。これに対し、アムロは「人間の知恵はそんなもんだって乗り越えられる」と応じるが、ことを急いでいるシャアはそれについて「ならば、今すぐ愚民どもすべてに英知を授けてみせろ」と切って捨てる。

 映画終盤では、このシャアの姿勢に対して、アムロが次のように投げかける。

「世直しのこと、知らないんだな。革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標を持ってやるからいつも過激なことしかやらない」「しかし革命のあとでは、気高い革命の心だって官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、インテリはそれを嫌って世間からも政治からも身を退いて世捨て人になる」

 アムロはこんなふうに、シャアの姿勢があまりに理念的でありすぎることを指摘し、その行く末を予想して見せる。

 ここで問題になっている「地球環境の汚染」「地球連邦政府の官僚主義」「宇宙移民の政治的地位の向上」といったトピックは、ひとつひとつに意味があるというより、「現在の世の中にある複合的な問題」をリアリズムの反映として作品に投影したものだろう。だからここに明快な答えはない。こうした問題意識は「現実認識の物語」「現実とはこうであるという物語」というテーゼを掲げて制作された『機動戦士Zガンダム』から直結している。先に触れたキャラクターの配置だけではなく、作品のバックグラウンドにある問題意識も『Zガンダム』と『逆襲のシャア』では共通しているのである。この問題意識は、その後も「人類がこの後、長く生き延びていくにはなにが必要か」という形に変化しながら、『ブレンパワード』『∀ガンダム』『ガンダム Gのレコンギスタ』といったタイトルのバックボーンになっている。

 『Zガンダム』の場合、「現実認知の物語」を掲げた結果、主人公のカミーユ・ビダンは、自らのキャパシティを超えて戦い、結果として精神的に崩壊してしまう。戦いは、宇宙移民(スペースノイド)の側にたつエゥーゴが勝利してはいるものの、ニュータイプであってもそんなに単純に世界を平和にできるわけはない、といわれたような、苦い割り切れない思いの残る悲劇として完結している。

 『逆襲のシャア』も、アムロとシャアの意見の相違に答えを出そうとはしていない。ふたりの極端な意見のぶつかり合いは、そのまま世間の問題のリアリズムとしての反映なのである。ロボットアニメという絵空事のはずなのに、ふたりの意見のぶつかり合いには現実と地続き感がある。ここではふたりの対立を通じて、映画というフィクションを現実に開いていくことが狙われているのである。そしてその上で本作は『Zガンダム』の悲劇とはまた異なるラストに到達するのだが、それについては後述する。

 

感情にとらわれた対立

 本作の特徴は、このようなマクロの状況に対して、ミクロの感情――具体的にはシャアの屈託――が接続されているところにある。

 革命を起こしたインテリの行く末をアムロがつきつけた時、シャアはどう応えたのか。

 「私は世直しなど考えていない」

 それがシャアの答えなのである。どう考えてもシャアの行う隕石落としの作戦は、性急な世直しが目的としか考えられないが、それをシャアは否定するのだ。なぜそんなことをいわざるを得ないかといえば、先述のとおり、シャアは「アムロにララァをとられた」という感覚を持ち続けており、その劣等感がアムロとの決着をつけたい強い動機になっている。ギュネイが「そのためにこの戦争を起こした」と指摘している通りなのだ。

 このシャアの「とられた」という感覚には補足が必要だろう。シャアとララァは当時、恋愛関係にあったが、ララァは数度すれ違っただけのアムロと、戦場で精神的に深くつながり、ふたりは意識を共鳴させて未来のビジョンを垣間見る。シャアは、ララァとそのようなビジョンを見ることはできなかった。このことが「ララァをとられた」という感覚に結びついているのである。

 ただ一方で、アムロもまたララァとの記憶はひとつの呪縛になっている。夢の中でアムロは、ララァに対して「シャアと僕を、一緒くたに自分のものにできると思うな」「シャアは否定しろ」と叫んでいるのである。アムロはアムロで、ララァが最期にシャアをかばって、アムロの攻撃に倒れたことが心の傷になっているのである。そしてアムロは、自分の心の底にあるこの感情を、今の恋人のチェーンには明かしていない。

 このように序盤は、マクロの状況による対立としてアムロとシャアを描きながら、映画の終盤でその対立が、実はララァをめぐる屈託の産物でもあるというふうに、ミクロの感情がマクロの状況に接続されていくのである。そしてシャアは、サザビーに使われた新素材サイコフレームの技術を連邦軍にあえてリークする。万全の状態のアムロと戦って勝ってこそ、自分の劣等感は払拭されるというわけだ。

 

「シャアというのは、やっぱり切ない」

 このように本作は、かつては野心に燃え颯爽としていた青年が青春の蹉跌を抱えた大人となり、一方で内向的だった少年が心に傷を抱えながらも大人として振る舞う様子を対象的に描き出すのである。このふたりの対比が、クェスの接し方にも現れる。「優しく接するけれど父親代わりはできないよ」と距離をとるアムロと、「ララァの幻影をそこに見つつも、父親を求める気持ちを利用して、戦闘マシーンとして扱う」シャアとの対比である。

 そんなシャアについて富野は「シャアというのは、やっぱり切ないよね。で、切ないかもしれないけど、それではダメだよ、と」(※2)と語っている。シャアの最後の「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ。そのララァを殺したお前に言えたことか」という台詞は、その切なさの極みとしてある。ここでいう「母」とは、単に母性で包みこんで安心させてくれる、というだけではなく、シャアをニュータイプの高みへとさらにいざなってくれるはずだった存在という意味もあるだろう。また作中の演説にも出てくるとおり、シャアの今回の世直しが、彼の実父であるジオン・ズム・ダイクンの思想に基づいていることを踏まえると、父の呪縛に強く縛られているシャアだからこそ、母を求めた、というふうにも解釈できる。しかし、それは結局叶わなかったのだ。

 このミクロの感情とマクロの状況が複雑に入り混じった状況は、『伝説巨神イデオン』のドバ総司令とよく似ている。ドバ総司令は、バッフ・クランの政治的責任者としての大義を掲げて戦いつつ、一方でロゴ・ダウの異星人(地球人)の子供を妊娠した娘を許せない気持ちと、同時にロゴ・ダウの異星人への怒りもまた戦いの中に込めていた。ドバのこのミクロの感情とマクロの状況は、シャアとも通じるものがある。

 またシャアが体現している「人生のどこかで間違ってしまった切なさ」という情緒は、日本のアニメーションの中でもなかなか描かれることはない。その中で富野はしばしば「所属したグループを裏切るキャラクター」に仮託して、こうした情緒を描いてきた。シャアは裏切ったわけではないが、大人が人生を振り返ったときに感じる痛切な切なさを残してシリーズから退場することになる。

 

 

【参考文献】
※1 富野由悠季責任編集『逆襲のシャア友の会』カラー、2023年
※2 ドキュメント・コレクション/『機動戦士ガンダム逆襲のシャア』4KリマスターBOX所収
※3 「ガンダム 逆襲のシャア」富野由悠季が若者にエール「命懸けないと宮崎駿は超えられない」(コミックナタリー)https://natalie.mu/comic/news/565348

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