ラストシーンを読む2つのポイント
アムロとシャアの政治的姿勢と心のうちに秘めた屈託。その上で、映画は映画としてラストシーンを描かなくてはならない。『逆襲のシャア』では、どういうラストシーンが用意されたのか。
アクシズは、地球へと落下を始めている。ロンド・ベル隊の奮戦で、アクシズを2つに割って落下を避けようとする作戦は成功したかに見えたが、アクシズの後ろ半分は破壊の衝撃で速度が落ちてしまい、地球への落下コースに乗ってしまう。
サザビーとの戦闘に勝利したアムロは、シャアの乗ったサザビーのコックピットを片手に持ちつつ、アクシズの先端に取り付き、νガンダムで押し返そうと試みる。もちろんそれは無茶な試みだ。しかしそれを見た連邦軍、ネオ・ジオン軍のモビルスーツも協力し、アクシズを押し返そうとする。
その時、νガンダム近辺から不思議な光が放たれる。この光は協力してくれたモビルスーツをアクシズから引き剥がし、アクシズ全体を包んでいく。コックピットの中でこの光を感じたシャアは「サイコフレームの共振? 人の意思が集中しすぎてオーバーロードしているのか? なのに、恐怖は感じない。むしろあたたかくて、安心を感じるとは」と語っている。シャアとアムロの「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」「お母さん? ララァが?」という対話はこの後に描かれる。これがふたりの最後の台詞となる。
そしてカメラが切り替わり、ネオ・ジオン軍の旗艦レウルーラのブリッジで、アクシズが地球への落下軌道からはずれたということが報告される。この後、救われた地球上の風景などが点描され、映画はそのまま締めくくられる。
このラストシーンには大きく2つポイントがある。ひとつは『イデオン』以降、戯作のポイントとなってくる「自我/科学技術/世界」という構図が『Zガンダム』以上にはっきり盛り込まれていること。もうひとつは、アクシズが謎の光に包まれて以降、そこで何が起きているのか具体的な台詞がほとんど登場せず、描写だけが進行するという演出スタイルである。
『イデオン』を継承した脚本第1稿
まず「自我/科学技術/世界」という観点から、『逆襲のシャア』のラストがどのように構想されたかを確認しよう。
富野による脚本は第2稿で決定稿となっているが、企画書の段階から既にラストシーンは「S・ガンダムの周囲が白熱化し、それがアクシズを半分以上包み込み、ついにはアクシズの進路変更に成功する」(※1)と記されていた。企画書に日付が入っていないため脚本第1稿と企画書のどちらが先行していたかは不明だが、いずれにせよ、企画の極初期からラストシーンのイメージが固まっていたのは間違いない。S・ガンダムはνガンダムの企画時の名前である。
ただこのラストシーンに至る要素は、第1稿と第2稿では大きく異なる。第1稿では、アムロは『Zガンダム』で出会ったベルトーチカ・イルマをパートナーとしているという設定になっている。そしてベルトーチカが妊娠をしていることが作中で発覚し、そのお腹の中の赤ちゃんが、サイコフレームともどもクライマックスで大きな働きをするというアイデアになっていた。
この第1稿をもとに富野自身によって書かれたノベライズが『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン』である。
こちらのクライマックスをみると、アクシズが落下運動を続ける中、地球のある町で生まれ落ちる子供の様子や、子供たちの様子を点描し、地球から発した光が、大きな帯になり、地球をとりまいて、νガンダムへと集中していくように描写されている。
シャアとアムロの近くにあったサイコ・フレームが共振したのかもしれない。ベルトーチカのお腹の赤ちゃんが呼んだのかもしれない。
そうではなく、このアクシズの空域に集まった男たち女たちの意思が、それらの光を呼び寄せて、吸い込んでいるのかも知れなかった。
それはともかく、その集中する光のために、ガンダムから発する白い光の壁は、一層巨大になって、アクシズと地球の間に、白い光の壁となって、伸びていった。
それは、あたかもアクシズの巨大な岩に、行くべき道を示すようであった。(※2)
サイコフレームは映画の中で、サイコミュの機能を持つ金属粒子レベルのコンピューターチップを、コックピットのフレームに封じ込めたものと説明されている。サイコミュとは、ニュータイプが脳波を使ってビットあるいはファンネル(浮遊する移動砲台)を操縦する装置のこと。要するに、コックピットの構造材そのものが、パイロットの脳波をダイレクトに感知する機能を持つようになったという設定である。
この構造材そのものが人の意志を感知するというアイデアは、『イデオン』に登場したイデオナイトと極めて近しい。イデオナイトは作中で、イデを封じ込めている金属と説明されていた。こうして考えると、ベルトーチカの胎内の赤ちゃんとサイコフレームの組み合わせは、『イデオン』直系のアイデアといってよい。そこには『イデオン』でのパイパー・ルウやメシアの扱いの延長線上にある「赤ちゃんの純粋な防衛本能は信ずるに足る」という思想も見ることができる。またサイコフレームは『Zガンダム』で未登場に終わった、サイコミュの発展型バイオ・センサーとも通じる機能を持った存在でもある。
既に書いたように、戯作者・富野は『イデオン』を作ったことで、「自我/科学技術/世界」という本人の戯作の根幹ともいうべき構図を明確に確立した。そしてその上で、『聖戦士ダンバイン』では「科学技術」にはしゃぎ、踊らされ、結果‟魔境”に至り、そこに「世界」の姿が浮上するところまでは至らなかった。また『Zガンダム』では「科学技術」を経て「現実の世界のありようを認知する」ことで、精神的に崩壊する姿を描いた。『逆襲のシャア』の第一稿は、それらを経由した上で、改めて赤ん坊の無垢な自我がサイコフレームという科学技術を経ることで、「世界」というものは決して絶望ばかりではない、という‟世界の理”に触れるさまを描いた作品と位置づけることができる。
第2稿で変わったこと
しかし、この第1稿にはいくつか意見がつき、改稿されることになった。修正のポイントは大きくふたつ。
ひとつはラストシーンについて。『ベルトーチカ・チルドレン』のあとがきによると、このラストについて「モビルスーツ否定である」という指摘があったという。ひとびとの心が集結してカタストロフを回避するというアイデアは、確かに『ガンダム』世界の重要な要素であるモビルスーツという兵器の存在意義を無意味にしてしまうものではある。富野はあとがきで「小生が、夢を追いすぎたのは、認めざるを得ませんでした」と記している。
もうひとつは「映画で、アムロの結婚した姿は見たくないな」というもの。富野はこれを「映画を製作企画する上でもっとも重要な意見」と受け止め、ベルトーチカと同棲しているというアイデアをやめる。エンターテインメントとしての映画を目指す富野としては、確かに映画のヒーローは「独身であり」「素敵に恋をし、冒険をしなくてはなりません」(あとがき)ということに説得力を感じたということだ。
こうして第2稿が執筆され、アムロの恋人として新たにチェーン・アギが設定された。ベルトーチカの妊娠というアイデアは「父になることを自然と受け入れるアムロ」と「偉大な父に縛られ、父親として振る舞えないシャア」というクェスを挟んだドラマ上の対比を明確にしたであろうが、それは主題として浮上することがなくなってしまった。また最後の謎の光については、赤ちゃんは関係がなくなり、「サイコフレームの共振によるものではないか」というニュアンスで演出されることになった。
第2稿は大枠では完成した映画と変わらないが、いくつか大きな違いもある。ひとつはクェスを殺してしまうのがハサウェイであること。発砲したものが偶然、クェスの乗るサイコ・ドーガに当たってしまうのである。この展開のため映画本編では、クェスを倒し、ハサウェイに撃たれているチェーンが、第2稿では死んでいないことになっている。また、シャアとアムロの最後の会話のところで、シャアはララァに言及していない。「私はお前に情けない兄だと言われたくないばかりにこうした」「この方が、セイラに誉めてもらえるのかな」とセイラに言及しているのである。このあたりは絵コンテを描き進めるうちに、思考が深まり、改稿されることになったのだろう。
このように『逆襲のシャア』のラストは、『イデオン』から本格的に取り込まれた「自我/科学技術/世界」という構図の延長線上にあるものだ。そして「ベルトーチカの赤ちゃん」の要素が削られた結果、誰がそれを願ったのか、という主体が曖昧になったことで、「理に落ちない」部分が増え、結果として‟奇跡”というものの複雑さが表現されたということはできる。
沈黙が伝えた「奇跡」
『逆襲のシャア』のラストは、この‟奇跡”というものを実に巧みに表現している。アニメーションというのは絵空事だから、なんだって絵で描けば「アリ」になってしまう。この融通無碍な表現手段の中で、どのように‟奇跡”は表現されたか。それはひとことでいうと、説明の拒否である。
映画ではまずνガンダム1機がアクシズにとりついて、それを止めようとしている。その行為を「ナンセンスだ」というシャアと、それに反発するアムロ。この時、コクピットにはサイコフレームの働きを表すものだろうか、緑色の光が走っている。そして遠くからみるとνガンダムの位置から、光の粒が広がり始める。その様子を見ながらナナイは「大佐の、大佐の命が吸われていく……」と涙を流す。
このνガンダムから放たれた光をみたせいなのか、連邦軍、ネオ・ジオン軍のモビルスーツが結集し、アクシズを止めようとする。しかしアクシズは止まらない。無理をするモビルスーツを止めようと、アムロはアクシズから離れるように呼びかける。この時、アムロは振動の中、シートに座ってはいない。シャアは「ならば人類は、自分の手で自分を裁いて自然に対し、地球に対して贖罪しなければならん。アムロ、なんでこれがわからん」と涙を流す。ここでカットがかわり、サザビーのコクピットとνガンダムから緑色のオーロラのような光が発生し、周囲のモビルスーツを弾き飛ばしていく。
シャアはこの現象を感じ取りながら、「しかしこのあたたかさを持った人間が地球さえ破壊するんだ。それをわかるんだよ、アムロ」と言いアムロはそれに「世界に人の心の光を見せなけりゃならないんだろ」と応える。この後、ふたりの最後の会話としてクェスとララァをめぐる会話がでてくるが、この光に関してのコメントはここで終わりである。そして三枝成彰の劇伴「AURORA」が流れ始めて、映画は締めくくられる。
このアクシズの落下を止めたと思わせる虹色のオーロラについては、説明らしい説明がほとんどないのである。アムロやシャアのリアクションで「どうやら人の心がサイコフレームと反応して起きたらしい」ということはわかるが、これも「らしい」という推察の域をでない。宇宙船からこの現象を見ている人たちは絶句するばかりで、さらになにも語っていない。
しかしもし、目の前で奇跡が起きた時、人はそれを「奇跡」と認識できるのだろうか。奇跡は奇跡であるがゆえに、あらゆる常識の外にある出来事だ。そういうものを人間が瞬時に理解することは難しい。むしろ、言葉や意味をすりぬける理解不能な体験こそが‟奇跡”なのだ。そんな時、人はただただ言葉を失って沈黙するしかない。『逆襲のシャア』は、そんな言葉を拒否する風景だけを残して映画を締めくくるのである。
ここで思い出すのは『機動戦士ガンダム』第41話「光る宇宙」で描かれた、アムロとララァが精神を交歓させるシーンである。あそこで描かれるさまざまなイメージも、なんとも名付けようのない、名前のない風景ばかりだ。そしてあの時見た風景はなんだったかをアムロは作中で一度も言語化していない。あれもまた言葉を拒否する風景だった。
『逆襲のシャア』のラストシーンは、キャラクターたちに言葉を失わせたことによって、‟奇跡”を合理的解釈に落とし込むのではなく、‟奇跡”のまま描くことに成功している。そしてかつてアムロがララァと見たあのビジョンもまた、その後、具体的な解説や読解がされないからこそ‟奇跡”の風景として、今でもシリーズの中で特権的な位置を占めている。ここでは‟奇跡”は、物語をうまくまとめるためのデウス・エクス・マキナではなく、作品の中で違和感を残しつつも、未来への希望を残すものとして配置されているのである。
先ほど、νガンダムから光が広がっていく時に、アムロがシートに座っていないと記した。またシャアは、モニターの死んだコクピットの中にいるだけだからなにもできない。これはつまり今回の奇跡がアムロ(やシャア)によって起きたのではないということの表現になっている。ではなぜ‟奇跡”は起きたのか、と考えた時に、その主体にさまざまなものが代入可能になっている。
アムロのもとに集まってきたパイロットたちの意思の集合なのか、ラストで映し出される地球上に生きる動物や人間たちの総意なのか。そして、そこに具体的な答えがないこともまた‟奇跡”の‟奇跡”たる所以である。これは『聖戦士ダンバイン』終了後に、既存の宗教感に抵触しない形で「世界」を描き出すことが可能ならば、情念の世界をちゃんと描き出すことができると語っていた(※3)ことの、実践とも捉えることができる。
「モビルスーツ」などの固有名詞で作品世界を構築し、戦闘中もキャラクターが饒舌に会話するという印象が一般的な富野だが、このラストシーンでは徹底的にキャラクターたちの口をつぐませており、その演出に『逆襲のシャア』の大きな特徴と魅力がある。
絵コンテを見ると、『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』(1982)のラストのように、英文メッセージを示すアイデアもあったようである。絵コンテには「英文一考のこと」とト書き付きで、‟To new whiz within you”と書かれている。意味的には「あなたの中の新たなる天才へ」といったニュアンスの言葉で、『めぐりあい宇宙編』の、‟And now... in anticipation of your insight into the future.”(そして、今は皆様一人一人の未来の洞察力に期侍します)とも近しい内容の言葉になっている。観客がこの映画をエンターテインメントとして楽しみつつ同時に、本作を通じて世界や社会といったものへと目を向けてもらえるようになってもらいたい、という期待が感じられる。『Zガンダム』の「現実認識の物語」という悲劇を経由して、改めて‟奇跡”という形で世界に残っている希望を描いたのが本作だったのだ。
人類の未来に対する希望の表象としての“奇跡”。そこに至るまでの現実への認識。そしてそれらを的確に表現していく演出。それらは『ガンダム』から『イデオン』に至る過程で確立された演出家・富野の技と戯作者・富野の哲学が、絶妙なバランスで融合した結果、生まれたものだ。以上が『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を富野の代表作と呼ぶにふさわしい理由である。
【参考文献】
※1 「逆襲のシャア」ドキュメントコレクション 企画書からの抜粋/『機動戦士ガンダム逆襲のシャア』4KリマスターBOX(バンダイナムコアーツ、2018年)所収
※2 富野由悠季『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン』角川スニーカー文庫、1988年
※3 「TVフレームの中のダンバイン」『ロマンアルバム・エクストラ62 聖戦士ダンバイン』徳間書店、1985年