単行本

【先行公開】きっと届くに違いない呼びかけ――サラ・アーメッド著『苦情はいつも聴かれない』訳者解説

組織内のハラスメントや差別に対し声を上げた人々は、何を経験するか。数々の証言から、組織・制度・権力が苦情を無力化するメカニズムを解き明かす。――11月22日発売予定のサラ・アーメッド著『苦情はいつも聴かれない』より、訳者のおひとりである飯田麻結さんの「訳者解説」を公開します。

 

 本書の著者、サラ・アーメッドはフェミニズム/クィア理論を専門とする独立研究者である。現在アーメッドが独立研究者として活動しているのは、本書で詳しく取り上げられているように苦情としての辞職、、、、、、、、がきっかけだ。大学側が性暴力やセクシュアル・ハラスメントに対して苦情を訴えた人びとの声を封じ込め、同時に利用してきた(大学のコミットメントの証拠としてハラスメントに抗議した集団の活動を大学の手柄にするなど)ことへの抗議として、彼女は教授職を辞した。本書の第七章は、大学に蔓延っていたハラスメントの文化に声を上げた学生たちと築きあげたコレクティブから生じたものだ。アーメッドの辞職はメディアで大きく取り上げられた。大学が秘密保持契約(NDA)を盾に学生に口封じをおこない、ハラスメント加害者が大学を去ったあとでさえもその人物が新たなキャリアを問題なく得られる環境を提供していたと明るみになったことで、全国の高等教育機関がハラスメント対策を見直すきっかけとなったのだ。

 この本で挙げられる事例は主に大学におけるものだが、苦情を訴える際にあなたが遭遇する物事と共通する点も多いと考えられる。聞き取りや対話に基づく数々の証言が章をまたいで登場することもあり、どの経験が誰のものだったか混乱する向きもあるかもしれない。おそらくそれは、いずれの苦情の訴えも根底にある差別や不正義に対する「何かが間違っている」という感覚、そして怒りや苦痛に基づくものであるから。だから、それぞれのケースにおいて苦情を訴えることは切り離しうる個別の事例ではない。「暗黙の文化」としてアカデミアにおいて常態化された性差別も人種差別も、より広い社会的構造の一部であり、特定の人びとにまとわりつく歴史を持っているからだ。時間や空間を超えた苦情が出会うとき、私たちはそこに堅固な壁を見出す。積もり積もって私たちを阻もうとするのは、自分以外の誰かが経験した出来事が解決されないまま蓄積された痕跡であり、苦情がまっすぐ〔ストレート〕ではなくクィアな時間性を持つのは当然なのかもしれない。

 それでは、あなたが苦情を訴えたいと感じたとき、まず何をすべきだろう? とりわけ、苦情の対象がより大きな権力を持っていたり、あなたがその内部に存在しているような、あるいはそれなしでは生活することさえ難しい組織の一部であったりしたときに。

 苦情を隠蔽しうる「耳ざわりのいい」ポリシーはいたるところに存在している。それが多様性やインクルージョンであれ、SDGsであれ、キャッチーな言葉に組織のコミットメントを代弁させる、、、、、という戦略は政策の場や組織のステートメントに頻繁に現れる。美々しいポリシーは確かに効果的だ(主に資金獲得において)。しかし、そのようなポリシーを作成することは大して難しくないというのもまた事実なのだ。そこで、本書で繰り返し用いられる「ノンパフォーマティビティ」という語の重要性が浮かび上がってくる。フェミニズムやクィア理論に親しい人びとであれば「パフォーマティビティ」という言葉、つまり「物質的効果をもたらす言説の力」(Butler, 1993)について見聞きしたことがあるだろう。ノンパフォーマティビティは反対に、ある発話が提示する物事をおこなわないことで成立する。つまり、発話に効果をもたせないという効果、、、、、、、、、、、、、、、、を引き起こす仕組みがノンパフォーマティビティなのである。「わが大学はセクシュアル・ハラスメントを深刻な問題だと考えています」「わが大学は多様性を尊重します」といった声明は、(実際はそうでないのに)問題解決に取り組んでいる組織の姿勢を喧伝するには非常に有効なのだ。言葉を無効化させるこのような仕組みをアーメッドは痛烈に批判する。組織が想定している人物とは異なる存在であること、差異を持っていること自体が組織にとって都合のいい多様性要員、、、、、として扱われてしまうとすれば、耳ざわりのいいスローガンは容易に「主人の道具」(Lorde, 1984)と化す。無効化のテクニックとしての収奪(appropriation)について、アーメッドは近著The Feminist Killjoy Handbook(2023)で次のように述べている。

私たちの言葉――インターセクショナリティから脱植民地化、奴隷制廃止、そしてフェミニスト・キルジョイそのものにいたるまで-―は、まったく自分の行動を変えずに、または行動を正当化する手段としてさえも、抵抗的なスタンスを主張することを可能にするような暴力を隠蔽する手段になりうる。(Ahmed, 2023: 242)

この引用で批判されているのは表層的な組織の言葉だけでなく、精査なしには私たち自身の言葉さえも空洞化されうるという点だ。その歴史を含めて言葉を取り戻すことは、ノンパフォーマティブなポリシーに抗うやり方の一つでもある。

 しかし、組織はあの手この手であなたの苦情を阻止しようとする。自己中心的だ、要求が多すぎる、組織の信用を落とすのはやめろ、と脅迫や懸念の表明といった形で妨害されることもあれば、正式な手続きとやらを複雑にすることで苦情の正当性が否定されることもある。言い換えれば、苦情を訴えることはキルジョイと見なされる格好の機会なのだ。アーメッドが長年にわたって用いてきた「キルジョイ」という形象は、生存することそのものが苦情として聴き取られうる人びとを指す(具体的な「キルジョイ」の例は『フェミニスト・キルジョイ』(二〇二二)を参照のこと)。そこに「問題を暴き出す=問題を持ち出す」という等式がしばしば登場する。苦情を訴えれば「私たち=問題そのもの」という等式が課せられてしまうのだ。ひとたび問題と見なされてしまえば、声を上げるコストはさらに大きくなる。そのコストは、自分がその一部であると信じていたコミュニティからの排除を伴うこともある。苦情を通じて私たちが立ち向かっている物事がいかに強大な構造であるのか、本書で描かれている数々の例から思いいたるはずだ。同時に、苦情が暴き出した綻びが隠し通せないほど大きくなることもある。それらの痕跡に耳を傾けることは、漏れ出す〔リーク〕苦情を跳躍〔リープ〕へと変える実践であり、私たちの世界そのものの変革へとつながる認識の獲得と結びついている。だからキルジョイとして苦情を訴える人物は、組織における喜び〔ジョイ〕さえも裏切ってみせる危険で予測のつかない存在なのである。

 ここで、アーメッドが辞職したあと私が出会った苦情の痕跡について触れたい。それはゴールドスミス・カレッジでアート専攻の学生の作品展示が毎年行われる、Laurie Grove Bath でのことだった。その名の通り、この建物は市民プール兼公衆浴場として長らく使われていた。もちろん、ここにとり憑く亡霊――性差別や階級差別、戦争の亡霊を含む――の話はたくさんある。そのトイレの個室のひとつに、真っ赤な文字で「サラ・アーメッドはどこ?(WHERE IS SARA AHMED?)」と書かれていた。その理由を私は想像する。これはアーメッドがゴールドスミスを辞職した直後のことで、この問いかけを書いた誰かは彼女の辞職を知っていたはずだ。「どうしてここにいないの?」という問いかけは、苦情の一形式として辞職したアーメッドに対する連帯と、彼女の不在を引き起こした大学側の対応における不正義について、見る者に直接訴えかけていた。本書でも挙げられていたように、ハラスメント加害者のおこないをその人物が執筆した図書館の本に書き込むような、いずれ消されてしまうけれども確かに存在した声を、血の色をした文字は示していたのだ。おそらくこの「落書き」はすでに物理的に消されているだろう。けれども、私はこれを憶えている。そして、私がメンバーであったフェミニズム研究センターやフェミニスト院生フォーラムにおいて、フェミニストの仲間たちがお互いの声を聴き取ることでオルタナティブな居場所を生み出していたことも。

 このような経験は、苦情を訴えるという実践を決してあなた一人のものにしない。「キルジョイの格言」のひとつとして、アーメッドは「他の人びともあとに続けるように、「ノー」の声を上げろ!」という一文を掲げている。

ノー、、と言うことで、わたしたちは過去のノー、、を解き放ち、そうすることではずみがわたしたちの後ろに生まれるかもしれない。(Ahmed, 2023: 249)

 風穴を開ける「ノー」は、過去だけでなく未来へのドアを開け放つ。苦情がいつも聴き取られなかったとしても、集合的〔コレクティヴ〕な生存はいつでも政治的なプロジェクトだ。三つの大学で異なるハラスメントの経験をした研究者のことを思い出してほしい。自分が赴くあらゆる場所で苦情を訴えなければならないというのは、どれほど困難な経験だろう。けれども、彼女はそうした。そうせずにはいられなかった。輝かしい希望ではなく、すり切れた希望という引っかき跡〔スクラッチ〕を残しながら。あなたがすでに彼女を身近に感じているのであれば、そして本書に描かれている苦情の数々とあなたの経験が共鳴しているのであれば、苦情という集合的なワークの一歩を踏み出したも同然だ。本書の原題Complaint! に含まれているエクスクラメーション・マーク(exclaim という語はラテン語のex=外へとclamare=叫ぶを語源としている)は、たとえあなたが同じ場所にいなくても、異なる闘いのただなかにいたとしても、きっと届くに違いない呼びかけを表しているのだから。

 

 

 

 

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