雲にハサミを入れる po/e/t/ry

雨ル
「雲にハサミを入れる —po/e/t/ry—」⑩

いま注目の詩人である岡本啓さんによるエッセイの連載第10回です。今回は、雨の北京の露地と、詩祭と、出会った言葉と、タンクトップ姿のおじさんの話。ぜひお読みください!(タイトルデザイン:惣田紗希)

 露地がざわめきはじめる。一滴、こんどは数滴、とうちつけてくる雨粒の音。駐車したバイク、車にカバーをかける、中庭の洗濯物をとりこむ、いそがしさ。胡同は雨のなかへまもなく突入する。雨雲がこちらにくる、というより、まるで雨のせかいに街全体が船出するようだ。露路のだれもが、顔をあわさずとも互いになにをしているかわかっている。甲板のうえではたらく乗組員たちのように。北京の露地からは目印になるような山が見当たらないからこんなふうに思うだろうか、ひとは流れるような動きで、ひとかたまりになって雨の時間のなかにはいっていく。

 ぼくはiPhoneをかまえ、雨のはじまりを動画に撮った。今朝方、朝礼集会を広場で見かけたフードデリバリーサービス、その黄色のバイクがかたわらをかすめる。液晶のなかの水平がわずかに傾く。平衡を失った映像のなか、自転車に蛍光色の大きな鳥籠を十ほどくくりつけたおとこが角に消える。

 上空の灰色は、しずけさをたもっている。人間の騒々しさをとりかこみながら。雨でほこりのおちついた胡同(フートン)、固く静謐なこの灰色の煉瓦の景色のなかへ、この数日は、とくべつ、血のにじむ痛みがひらひらまじっている。いまは国慶節で、あざやかな真紅の国旗がどの家々にも飾られている。旧市街の、言葉をのむほどの美しさ。数日前に歩いた雑然としたアパート街と比べ、胡同の風景は瞳がやすまる。とはいえ、どこの国でも、絵にならない日常の暮らしぶりを知ることには、なにかちがったよろこびがあるものだ。こうやって保存の手がくわえられた街並みではなく、政府も観光ガイドも紹介しない焦点の当たらない場所に、地球のおおくのひとは住んでいるから。

 この二〇二三年十月は、ゼロコロナ政策が年明けに撤廃され、移動が自由になってはじめての大型連休だ。中国全土から首都北京を目がけておおくのひとが遊びにくる。大通りはとてもにぎやか。けれど街に外国人はほとんどいないように思えた。日本語どころか英語も聞かなかった。祝日の期間と中秋の名月が重なった数日に、崩れた万里の長城のみえる山のなかで詩祭があった。ぼくは、その詩祭に招待されて中国にわたり、その後、帰国までの数日間を北京で過ごした。詩祭会場は、空気のきれいな山頂にある新品の大学キャンパスのように巨大な住宅街。そこにたどりつくためにバスは田舎道をひた走り、ひたすら山をのぼっていく。なぜそんな交通の便の悪いところに住むのかふしぎに思った。けれど、市街におりてきて、白っぽい大気をのどにすいこみ、その理由がわかった。

 現在、北京の観光名所は事前の予約が必要になっている。ただ、その入場予約には国民の登録番号が必要。短期滞在の外国人には、それらをそろえることが現実的に不可能だ。地下鉄のICカードも同様に国民番号が必要。現金を使うほかない。ただし、チケット販売機に入るお札の種類は少ない。入っても受け付けないことも多く、二回に一回の割合で、駅員さんにお願いすることになった。コンビニでも現金を使うひとはほぼいない。ところが審査の厳しいためクレジットカードは、それほど浸透していない。生活においてキャッシュレスは完成している。電子マネーがなくてぼくは困った。

 VPNを利用したWi-FiがなければLINEやグーグルの地図もメールも使えない。そのかわり、同じように便利な中国のアプリがある。ひとびとの手元で世界は二つに分かれてしまった。けれど、その分かれてしまったものの翻訳機能を使って、コミュニケーションをとる。コロナで国家が際立ち、アプリにひとびとは囲いこまれた。そして、ある世界とは親密になる一方、ある世界とは急速に離れ離れになった。ぼくはそれが心配だ。人類はどこへむかうのだろう。

 中国に住むひとは天安門事件について読むことはできないのだと思うと不思議な気がした。前日にぼくは、立ち入れないにせよ近くまでいって見ようと、天安門広場のほうへむかった。一九八九年が自分の詩を変えたという詩人に出会って、どんな場所か気になったのだ。地下鉄駅から、あと四、五百メートルというところで、家族、家族のものすごい人出に引き返した。鼻をかむと、鼻血が出た。とまらない。濁ったティッシュをなんどか詰めかえ、そのまま鼻につめものをして歩いた。ここではまわりにいるひとにだれも気を払わない。だからすこしも恥ずかしいと思わない。中国の人々ののびのびとしたいいところだ。

 詩祭の最後の夜には、夜更けまで関係者で小さなパーティーがあった。リビングルームの、キッチン側では、若い詩人やミュージシャンが、重たいビートのダンスミュージックを鳴らし踊っている。むこうのテーブルでは、年配の詩人たちが座り込み熱く詩について議論している。同じ部屋、でも少しも失礼だという感じがない。一部屋は、二つの顔をもって、無事に詩祭を終えることができたみんなの安堵ににじむ夜がふけていく。

 雨であたりのほこりが消えている。肩をなでつける小雨のなか、歩いていた区画の案内表示に、「雨ル胡同」とみかけた。ルは正確でなく、ほんとは何かの簡体字。中国語の知識のないぼくは、文字の示すたしかな意味の層にふれることはできない。雨ルと口にしてみる。ただしくはない。ところが、それもほんとうなのだ。ぼくの世界は、中国語を知ってしまったひとにはふれることはできない。ただしくはないけれど、ぼくはその世界にいる。この世にはいつも自分には見えないもう片方の世界がある。ふつうには気づかない月の裏側のような暗がりの存在。それについて、忘れずにすごすにはどうすればいいだろう。ぼんやりおもいながら歩いた。

 巨大な狛犬があった。いまは、共産党かなにかの施設になっている歴史的な建物の前。ぼくがiPhoneのカメラをむけると、タンクトップ姿のおじさんがなにかぼくに話しかけてきた。しゃべれないんだ中国語、身振りでこたえながら、ぼくは翻訳アプリを起動しようとする。しまった、モバイルWifiを部屋に置き忘れきてしまった。写真を撮ってくれるってことかな、でもなにか違うようだ、おじさんは、狛犬の手前にある高さ一メールくらいのコンクリートの杭を手でたたく。これだよ、これ。

 え、ここに乗れって、とぼく。ちがう、ちがう、という身振り。で、おじさんは、わかったしょうがない。と、自分のスマホで狛犬を撮った。見てみろ、ほら。

 スワイプしたら、写真の杭がきれいに消えた。

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