「バス停の前を通りかかったとき、バスがいなければいい」と、平田俊子さんは書いている。なぜなら「たまたま停車していて、どうぞお乗りくださいというように扉が開いているとふらふらとバスに吸い込まれそうになる」からである。
そうやってバスに飛び乗って、特にどこか行きたい場所があるわけではない。バスに乗っている時間そのものが平田さんは楽しくて仕方がないようだ。
車窓から眺める街並みはバスの動きに合わせてするすると変化していく。にぎやかな商店街を、ファミレスやコンビニを、店頭にレコードを並べた古書店を、サングラスをかけた小型犬が歩いているのを、平田さんはじっと見ている。そして、窓の外の景色と同じように、途中のどこかで乗り込んできた人や、降りていった誰かを見つめ、また、自分の座席の後ろに座った人の声や動きまで捉えて、妄想を膨らませていく。
私は普段それほど頻繁にはバスに乗らないのだが、電車にはよく乗る。平田さんにとってのバスのように、ただ移動したいがために乗ることもある。窓の外の景色を眺め、本を読んで飽きて、うとうとしたり。そうしている時間は、自分が普段縛り付けられている生活や仕事、人生における諸問題などから解き放たれたように思える。何もかも、ここまでは追いかけてこないだろう。ひとときの逃走である。
電車に乗ってたまに逃走している私は、平田さんの『スバらしきバス』を読み、「バスの方が逃走に向いているかも」と思った。「バスは近所のバス停からひょいと乗れるところがいい」と書かれているように、電車だったら、駅の階段を降りたり上ったり、きっぷかICカードかを用意して改札を通って、と、移動開始までの障壁がいくつかあるが、バスは乗ろうと思えばいきなり乗れてしまう。散歩している途中にバス停を通りかかったらバスがちょうど来て、そんなつもりはまったくなかったのに遠くへ向かう、と、そんなこともできるのだ。
この本の冒頭の一篇「森にいく」は、夜に飛び乗ったバスで、「江古田の森」という見知らぬ場所へ向かう話だ。中野駅から出発した時点では満席だったのが、乗客は途中でみんな降りていき、最後は平田さんひとりになってしまう。心細い状況だから、平田さんの想像も不気味な方向へとどんどん広がっていく。
そんな文章から始まって、また、平田さんがあちこちで出会ったバスにひょいと飛び乗ってしまうものだから、この本を読んでいる私は、バスがまるで人さらいの乗り物のように思えてきた。まあ、平田さんは自らすすんでさらわれてしまうのだが。
電車とは違う親密さが、バスにはあると思う。運転手も乗客も、もちろんどこまでも他人なのだけど、同じバスで一緒にどこかに向かっているだけで、その人が徐々に身近に感じられてくるような。平田さんが自分以外の車内の人々についてあれこれ妄想するのも、バスの親密な距離感ゆえではないだろうか。
喩えるなら……スナックだろうか。たまに勇気を出して知らない街のカラオケスナックに行って、そこに居合わせた知らない人の歌を聴いて拍手して、自分も歌って拍手されて、一緒の時間を共有しているけど、結局どこまでも他人ではある、というような。あの感じに近いような気がする。
そういえばずっと昔、バスツアーでどこかへ出かけた時、車内にカラオケがあって、ガイドさんが歌っていたりしたような……。もし路線バスにカラオケがあって誰でも歌えるようになっていたらどうだろう。乗客の誰かがカラオケを歌い出したらきっと私は拍手をして、調子に乗って私が歌えば誰か拍手してくれる人がいるかもしれない。歌うならバスが出てくる曲がいいな。歌い終えて気が済んだら、みんな当たり前のようにそれぞれどこかで降りていくなんて、ちょっと面白いのではないだろうか。
そんな妙なことを考えて楽しくなっている私はきっといつの間にか平田さんの言葉にさらわれていて、今度の散歩の途中、やってきたバスに飛び乗ってしまうかもしれない。
平田俊子『スバらしきバス』(ちくま文庫、2024年10月刊)について、新刊『家から5分の旅館に泊まる』も話題のライター、スズキナオさんによるエッセイを公開いたします。人生における諸問題からの逃走には実はバスがうってつけ!? ぜひお読みください(PR誌「ちくま」2024年11月号からの転載)