沈黙。
フランツが口を開く。
「どうなったんだ」
「懲戒免職になったよ。そいつの餌食になった子が、分かっただけで四人もいたんだ。最後の子に強く抵抗されて、カッとなったらしい。力任せに顔を殴って大ケガをさせてしまって、隠し切れなくなったのさ。そうでなかったら、もっと犠牲者は増えていただろう」
連行されていくあいつの恨みがましい目が、今も脳裏に残っている。
あの目は俺に向けられたものだと直感したからだ。
おまえのせいだ。おまえがいうことをきかなかったから、こんなことになったんだ。あの子たちがこんな目に遭ったのは、ぜんぶおまえのせいだ。
「俺は誰かに相談すべきだったんだろう。だけど、世間的には評判のいい、人気の教師だったから、俺が誰かに訴えても信じてもらえたとは思えない。実際、何かされたわけじゃなかったし」
一人は転校し、一人は不登校になった。あとの子は沈黙した。
どうすればよかったんだ、と今でも思う。
「君は悪くない。悪いのは、その下種野郎だ」
フランツが俺の耳元でそう囁き、横になった。
「その台詞、あの頃に聞きたかったな」
「君は、ちっとも悪くない」
フランツはもう一度言った。
「そういえば、一件落着してから、親父にもそう言われたな。『いいか、おまえはこれっぽっちも悪くない。だが、これからは気をつけろ』ってね」
「へえー」
やはり、フランツの父親は、息子を深く愛しているんだな、と思った。けれど、それは息子には「これっぽっちも」伝わっていないのだが。
彼の父が、じゅうぶんな証拠を押さえた上で刑事事件にしなかったのは、被害者としてフランツの名前が出るのを恐れたからだし(証拠を押さえるために違法行為を働いていたから、というのもあるだろう)、この件が見せしめとなって、以後フランツに手出しをする者はいなくなると踏んだからだ。
しかも、フランツの父は、フランツがいちばん聞きたかったであろう言葉――それは、罪悪感に苦しんでいたかつての俺が聞きたかった言葉でもあった――「おまえはちっとも悪くない」とはっきり言ってくれている。
彼の父は、彼のためにできる限りの対応をしてくれている。深い愛情がなければ、そうはできない。
ユーリエと彼とのやりとりが目に見えるようだった。
あなた、今回のこと――ありがとうございます。
ユーリエが、打ちひしがれた様子で夫に言う。
夫はいつも通り、傲岸不遜な口調で答えるだろう。
おまえに礼を言われる筋合いはない。すべきことをしたまでだ。
それでも、ユーリエは言い募る。
ごめんなさい。あたしのせいだわ。今にしてみれば、思い当たることがいっぱいあった。あの子の素振りから、あたしがもっと早く気付かなきゃいけなかったのに。
夫はぶっきらぼうに首を振る。
おまえがそんなふうにショックを受けて、自分を責めるだろうと分かっていたから、あの子もおまえには打ち明けられなかったんだろう。だが、あれは私に打ち明けた。賢明な判断だったと、あれに伝えておいてくれ。
ユーリエとフランツの話を聞いているうちに、彼女の夫であり、彼の父親であるフリードリヒの姿がおぼろげに浮かび上がってきた。堅物で、面白みがなく、この上なく高圧的な男。その硬くて厚い殻の内側に隠れている心情。
なんだか、俺には、あんたの気持ちが分かるような気がする。
顔も知らないその男に話しかける。
俺が思うに、あんたは妻と息子の美しさに傷ついているんじゃないだろうか。傷ついている、という表現が適切かどうかは分からないが。
例えば、ユーリエの素晴らしさは、絶世の美女だからではなく、彼女の聡明さや度胸や洞察力などをひっくるめた、女としての見事さ、人としての素晴らしさだ。あんたは、表面的なものではなくそういう部分を愛しているのだと言いたいのだが、彼女のあまりの美しさを前にして、説得力を持ってうまく伝えることができない。あんたはそんな自分に苛立ち、傷ついているのだ。
ましてや、妻そっくりの美しさと、自分の不器用さを引き継いだ息子には、どうにもうまく愛情表現が出来ない。
ユーリエは夫のそういう不器用さをよく理解しているし、その不器用さを愛したんだろう。けれど、フランツは、ユーリエのようには察してくれないし、父の不器用さが分からない。
「――何を考えてた?」
フランツが尋ねた。
「いいや、特に何も」
俺はそう答える。
「こうして好きな人の隣で安心して眠れるのは幸せなことだなって」
フランツがフッ、と笑ったのが分かった。
「あれだけ気配を消してるのに?」
「消してても、さ。あれはもう、習慣だから治らない」
フランツはおもむろに俺の首の下に腕を伸ばして、俺の頭を引き寄せた。
おや、珍しいな、と思った。
「バレエダンサーは、腕枕はすべきじゃないって言ったのはフランツじゃなかったっけ。翌日、痺れて腕が上がらなくなるからって」
「うん。でも、今はちょっとだけこうしたい」
「分かった」
俺はフランツの頬に軽くキスした。
「おやすみ、フランツ。いい夢見なよ」
「僕は夢は見ない」
「それでも、いい夢見なよ」
俺は、俺の頭に置かれた彼の手に、自分の手を重ねて目を閉じた。
(第三話 了)