ちくま新書

神戸というまち
村上しほり『神戸――震災と戦災』より

12月9日発売の『神戸――震災と戦災』(ちくま新書)より、「はじめに」を転載します。

 兵庫県南部に位置する神戸市。その市域は、1868年に開港した神戸港があること、海と山、豊かな自然に恵まれていることで知られている。交通網の発達したコンパクトシティでもあり、利便性の高さと恵まれた環境が感じさせる「暮らしやすさ」は大きな魅力といえる。
 近現代の社会と都市の暮らしは、めまぐるしく変わってきた。神戸の近現代は、神戸港開港後、1889年の市制施行による「神戸市」の成立に始まる。特徴的な都市の変動として、1938年の阪神大水害、1945年の神戸大空襲、1995年の阪神・淡路大震災といった多くの災害や戦災があった。これらの度重なる大きな危機からの復興を繰り返して、現在がある。
 神戸出身の小説家・陳舜臣は、『神戸というまち』(至誠堂新書、1965年)のまえがきに「神戸を書くのは、私にとってかなりシンドイことだった」としたためた。自分が生まれ育った土地は身近すぎて、「つき放して観ることができない」から、気楽に書いたという。
 偉大な陳舜臣と並べるのはおこがましいが、私もまた占領下神戸の研究者として、「あなたにとっての神戸とは」と繰り返し問われてきた。これまで、建築・都市計画学の分野で都市史を研究し、戦後神戸市の戦災復興やGHQによる占領、市民の生活再建の相克を描きだした(村上しほり『神戸 闇市からの復興―占領下にせめぎあう都市空間』慶應義塾大学出版会、2018年)。
 私にとって、神戸は生まれた場所ではないが、10歳から暮らし育ってきた「地元」である。神戸市内の学校に通い、遊び、働き、居を構え、変わるまちとともに生活してきた。
 いま思うと私たちの青年期は、阪神・淡路大震災の影響を大きく受けた、震災復興下の神戸にあった。平成の神戸に暮らしてきた私には、震災と震災復興はあまりに身近だった。論じることができないほどに近く、しかも被災の当事者ではない。経験を語る対象ではなく、聞く対象として、阪神・淡路大震災はあり続けた。
 一方で、その50年前に神戸が空襲によって激しく傷つき、戦災復興によって従前の昭和初期から姿を変えたことの実感は薄かったが、戦後の都市再建や、震災前までに形成されていた神戸のまちがどのようなものだったかには興味があった。近くて遠い存在に感じるアンビバレンスとの私なりのつきあい方として、このまちの歩みを考えはじめたのかもしれない。
 神戸のまちは、さまざまに語られ、描かれてきた。
 明治初期には牧歌的な田園風景、明治後期には多くの外国人が行き交い、盛んな商売の一方で危うさのある無国籍なまち。
 大正期は海運ブームによる活況から不況への激動と異国情緒が馴染んだ活気あふれる新興文化のまち。
 そして、昭和初期には、金融恐慌から軍需景気への移り変わりや産業転換が起きるなか、水害や戦時体制など、開港から約70年でかたちづくられていた神戸のまちが崩れていく時期に突入した。
 昭和期には戦後も共通してエキゾチック、国際的というイメージが強調されたが、安定成長期になると、治安よりも商機を優先した猥雑さを一掃し、美しくオシャレなまちへと変わっていった。
 先日、次期総合基本計画(マスタープラン)の策定において、「神戸といえば○○やんなぁ」というフレーズで神戸の「まちの魅力」を言語化するアンケート調査が実施された。そこでは、「海と山に囲まれた自然豊かな環境」「夜景の美しさ」「都会でありながら田園・里山もあるまち」「オシャレ」の4項目が、魅力の上位に選ばれた。
 ここに挙げられている4つはいずれも、目に映るまちの魅力だ。海、山、都市、農村の風景が昼夜ともに魅力的であることは素晴らしい。私も、傾斜地から/傾斜地を望む神戸らしい眺めにはアイデンティティがある。
 しかし、地元の人間が答えているにもかかわらず、視覚に訴える魅力ばかりが前に出ること、その結果として普遍的な日本全国どこにでもあるまちの魅力に回収されていることに危うさを感じる。各区で開催されたワークショップではさまざまな声が出たが、結果を数的にまとめ上げると、わかりやすさがディテールを捨象してしまった感がある。これは往々にして起きることだ。
 デザインは「選択と捨象」を加速させる。経営や業務の意思決定においては必要である一方、これを都市に当てはめると、その多面的な魅力が単純化されてしまう。
 都市空間の魅力は五感をフルに使って楽しむものである。だからこそ、その場に身を置きたい、足を運びたいと感じる人びとが訪れるわけで、視覚の魅力はその一歩目に過ぎないと考えたほうがよい。
 さて、対象が人でもまちでも、ぱっと見は生理的な○か×だ。その印象を過ぎて深く知っていくと、見えることが増える。解像度が高まる。そして、すべてが好印象とはいかなくなる。
 しかし、「なんかいい感じ」という軽さを超えて、言語化しづらい「私と神戸との関係」がかかわる人の数だけ生まれれば、きっと新たな神戸像も生まれていくに違いない。
 神戸というまちがよりよく理解されることで、見た目の美しさや素敵さだけではなく、つらさや苦しみを抱えたこのまちのさまざまな歩みさえも愛おしく思えるような、そんな関係が築かれる可能性も開けるのではないか。
 そんなことを、震災30 年の2025年を目前に考えている。
 同じ都市を描くにしても、捉えようとするスケールや時期や対象によって、見えるものは変わる。本書では、明治期から現代までの神戸の都市史をひとつながりに捉え、罹災からの復興によって生まれた神戸というまちの成り立ちを描く。
 いま自分たちが暮らす、訪れる神戸のまちをどう見るか。そして、これからもいつ発生するかもしれない危機とどう向き合うか、どう再建するのか。
 本書は近現代神戸における災害からの復興を、都市計画と人びとの生活に着目して読み解いた。幅広い世代が都市の歴史を考えるための端緒となることを願う。

関連書籍

村上 しほり

神戸 ――戦災と震災 (ちくま新書 1832)

筑摩書房

¥1,320

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入