些事にこだわり

令和日本の官僚たちは、なぜ、形而上学的な「認識」の語彙を涼しい顔で乱発しているのか

蓮實重彥さんの連載時評「些事にこだわり」第22回を「ちくま」11月号より転載します。掲載時より思いもよらぬ展開を経て、ふりだしに戻ったかのようなこの話柄。丹那トンネルより西ではどんな不思議でも起こるのか、(元)官僚たちの言葉のマジックがいよいよ時代を覆い尽くさんとしているのか。ご覧下さい。

 六本木からさして遠からぬ三河台という麻布の一郭で生まれ、そこにあった祖父母の家が戦災で焼け落ちてからはもっぱら世田谷で暮らしていたので、とても生粋の江戸っ子などとは呼べぬ曖昧な身分でありながら、戦事中を疎開先の長野県で暮らしたほかはほぼ例外なしに東京に住んでいたのだから、昭和九年に開通した東海道本線の丹那トンネル以西の土地をそっくり異国と見做しているのも、さして無理からぬ事態の推移というべきかもしれぬ。
 実際、わたくしにとっては、丹那トンネルはいわば安土桃山時代の「関ヶ原」みたいなもので、異国にほかならぬそれ以西の文化圏でどんな事態が起ころうと、驚くことはない。何しろ、京都府警の本部長なる人物が、業務中に、部下に向かって「しばくぞ」などとヤクザまがいの言葉を口にするのが日常化されている土地なのだし、また神戸がその県庁所在地でもある兵庫という異国の土地でも、二十歳台というからまだうら若い女性の巡査部長が勤務先で男性の部下たちと涼しい顔で「やっちゃう」ことまで日常化されていたというのだから、その県の知事がどんな荒っぽい振る舞いを演じたってまったく不思議ではないとさえ思っている。
 もちろん、阪神タイガースの本拠地である甲子園球場なるものが兵庫県に位置していることぐらいは、知識として知っておらぬでもない。とはいえ、その球場に一歩も足を踏み入れたことがないのだから、そこで「浜風」と呼ばれたりする大気の流れが東西南北のどちら側に向けて吹いているのかについては、まったくもって理解が及ばない。また、その兵庫県の知事なる地位におる者――もっとも、ごく最近、県議会から不信任決議を突きつけられて失職を選んだのだから、元知事というのがより正確なのかもしれぬが――が、数ヶ月前から何やら児戯めいた振る舞いによって世間を騒がせているかにみえもするが、何しろ丹那トンネル以西の遥かかなたのこと故、それ自体は興味の対象ともなりがたい。
 にもかかわらず、ここでその知事の言動に触れざるをえないのは、その地方で口にされている関西弁という方言の問題ではなく、彼が口にするいわゆる標準語の中で、哲学的にもきわめて重要な役割を帯びている語彙が驚くべき価値下落を蒙っているという点が問題なのである。それは、「認識」の一語にほかならない。では、ことさら哲学的な素養が豊かとも見えないその元兵庫県知事は、いったいどんな文脈でその語彙を口にしているのか。

 例えば、元兵庫県知事は、八月七日の記者会見の、どうやら自死したらしい元県民局長の「斎藤元彦兵庫県知事の違法行為等について」という文書をめぐる記者との質疑応答において、当の文書には「事実と異なる記載が多々ある」ので、「放置しておくと、多方面に著しい不利益が及ぼされる内容であると認識、、[傍点:引用者]をしました」と述べている。また、当の県民局長が処分の対象となるべき理由をあれこれ列挙してから、「以上が3月12日から懲戒処分が行われた5月7日までの事実経緯に関する私の認識、、[傍点:引用者]でございます」と元知事はひとまずその言葉を結んでいるが、「私の認識」というからには「私」以外の人間の「認識」と異なっていても、それはそれでかまわないということなのだろうか。
 元知事は、元県民局長の文書について、「信ずるに足りる相当の理由が存在したというのは認められず、法律上保護される外部通報に当たらないと認識、、[傍点:引用者]をしております」とも述べ、「後から公益通報の手続きを取ったとしても、それ以前に行われた文書の配布行為がさかのぼって公益通報として保護されることになって、懲戒処分を逃れることにはならないと認識、、[傍点:引用者]しております」と結んでいる。「事実でないことが多々含まれる文書であるということ、そして一つ一つの内容について、例えば、誰から具体的に聞いたということはない文書だということは認識、、[傍点:引用者]していましたが、公益通報かどうかまでは、認識、、[傍点:引用者]はしなかったと考えています」とも記者に返答し、「そういった意味で、信ずるに足る相当の理由がない資料であるということは認識、、[傍点:引用者]していました」とも述べている。しかも、「人事課が内部調査で4月ぐらいにかけて、弁護士とも相談したというふうに伺っていますので、その中で、法律上保護される公益通報には当たらないという弁護士の見解を得ていたことを、私自身5月7日の処分の前に聞いたと認識、、[傍点:引用者]しています」と胸を張ってみせる。
 だが、それにしても、なんという「認識」という語彙の氾濫であることか。であるが故に、記者たちはその語彙の氾濫について問うべきであり、そうはしなかった彼らの言語感覚の欠如を前にすれば、元知事の勝利――相対的、かつ一時的なものであるにせよ――はほぼ明白なのである。しかも、記者の一人は、「外部通報に関して、知事の認識、、[傍点:引用者]を確認したいのですが、告発文書を出した時点で信ずるに相当する理由という証拠というか、供述や文書みたいなものを出さなければならないという認識、、[傍点:引用者]なのですか」などと、認識、、という語彙をみずから口にしておる始末だ。記者たるもの、お前さんの認識、、などどうでもよいから、事態の推移に照らしてお前さんの行動と思考の軌跡を明らかにせよと問うべきではないか。
 ところで、この元知事の答弁における「認識」という語彙の偏重ぶりを耳にして、ふと、これはどこかで聞いた答弁の芸もない蒸し返しだという印象を受けたのはわたくしばかりではあるまい。実際、それは国会における衆参両院の委員会などにおける官僚――あるいは元官僚――たちの発言にしばしば見られる傾向だからである。
 例えば、平成三〇年三月二七日の参議院予算委員会に証人として登場した財務省の前の理財局長の佐川宣寿氏は、森友学園への国有地売却をめぐる例の「決裁文書書換え」の問題をめぐる金子委員長の質問をめぐって、「今の委員長の御質問であります、いつとか、私がその決裁文書の書換えに、いつ、どのように認識、、[傍点:引用者]をしたかといったことにつきましては、私が捜査の対象であり刑事訴追を受けるおそれがございますので、その点につきましては答弁を差し控えさせていただきたい」と返答している。それとほぼ同じニュアンスの認識、、という語彙は、共産党の小池晃氏の質問に対しても口にされており、また衆議院での証言においてもほぼ同様だったのである。だとするなら、古代ギリシャのプラトンからアリストテレスまでさかのぼる西欧の哲学的=形而上学的なニュアンスを帯びた認識、、という語彙は、この退屈な令和日本において、その退屈さをふと中和することで退屈化にさらなる拍車をかけることで、己の保身に役立つ便利な官僚特有の言いまわしだったのだろうか。
 実際、佐川氏の場合は国税庁長官まで登りつめた東大経済学部出身の官僚だったし、元兵庫県知事の斎藤元彦氏も、東大経済学部出身の総務省元官僚だったのではないか。また、つい最近、スポーツ中継を見るつもりでふと目にしてしまった東京都の都議会で、課長だか部長だかの一人が、答弁で認識、、の一語をごく無邪気に口にするのを耳にしてしまった。その無邪気さがどこかで不穏さに通じているところが、怖いといえば怖い。

 と、ここで事態は急変する。丹那トンネル以西の土地が、不意に異国とは見做しがたい親しい環境だとまではいわぬまでも、わたくし自身とまったく無縁ともいえぬ土地へと変質することになったからである。ひたすら認識、、の一語を乱発していた斎藤元彦という元兵庫県知事が、このテクストを書き綴りつつあるわたくしともまったく無縁とはいえぬ存在であることが不意に発覚したからである。それは、どうやら兵庫の大富豪だったらしい彼の祖父なる人物が、ごく親しくしていた元兵庫県知事の故金井元彦氏の令名にあやかり、その孫を元彦と名付けたと知った瞬間の衝撃だといってよい。このわたくしは、のちに参議院議員をも務められた金井元彦ご夫妻と、兵庫県知事を務めておられた一九六〇年代に、パリ左岸の優雅な料亭で、親しく夕食をともにしたことがあったからである。まだまだ一ドルが三六〇円だったからとても裕福とはいえぬこの異国に住む日本人の青年を、ご夫妻は豪華な料亭へと招待してくださったのである。それは、お二人が、わたくしの中学、高校、大学時代のクラスメイトのご両親だったからにほかならない。
 メールという通信手段が発明されるより遥か以前のことなので、ご子息の金井との律儀な書簡によるやりとりで、そのご両親との異国でのアポイントメントの詳細をあらかじめ打ち合わせていたものと思われるが、どのようにして彼のご両親とお目にかかったか、その詳細は記憶からまったく消え失せている。だが、その父上は旧一高から東京帝大に進まれた秀才だけのこともあり、畑違いの十九世紀フランス文学などを専攻していたわたくしのソルボンヌでの研究生活にも充分すぎるほどの関心を示して下さった。氏の戦時中の言動にまったく問題がなかったわけではないとはのちに知ったことだが、パリでのご夫妻の振る舞いは、ご子息の同級生に対してまったく鄭重かつ完璧なものだったといえる。ところが、いま問題の元兵庫県知事の斎藤元彦氏が、わがクラスメイトの金井とも、その父親の元彦という名前を通してまったく無縁の存在でもないとつい最近になって知り、何やら複雑な思いに捕らわれたものだ。
 どうやら、「関ヶ原」などと呼んだ東海道本線の丹那トンネル以西の土地も、このわたくしにとって、決して遥かな異国ではなかったようだといまのところは反省している。だが、そんな忸怩たる思いも、三日もすれば忘却されてしまうに違いない。ただ、官僚たちがあっさりと口にする認識、、の一語だけは、わたくしの語感をなおも不穏に刺激し続けることになりそうだ。

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