本書は、居場所や対話が強調される現代に、「ひとりぼっち」でいることの価値を訴える。孤立が悪しきものとして避けられがちな時代に、「良い孤独」があると語る。ここ数年孤立からの脱出をテーマにしてきた私にとっては驚きだった。
孤独という現象は最近の発明であり、孤独には悪い孤独と良い孤独があるという。かつて人がどのように孤独を発見したのか、二一世紀に社会が息苦しくなるなかで、悪い孤独から良い孤独への脱出の道をどのように探索できるのかを、著者は丁寧に考える。
本書は『アナ雪』の鮮やかな分析から始まる。エルサは、自分が持つ魔法の力という悩みを打ち明けられず悪い孤独に陥る。雪山の氷の城に閉じこもることで、いったんは憂いのない良い孤独を発見するが、力の統御にはいたらない。ようやく最後にアナとの姉妹愛においてエルサは力を統御できる主体となる。ハンス王子との異性愛的で家父長的な愛は偽物であり、同性のきょうだい愛という新たな解決策を提案した。しかし社会的な救済ではなく、あくまで家族の愛情という自己責任の解決にとどめてもいる。
『アナ雪』は、悪い孤独と良い孤独、家父長制の克服、問題を解決するのは個人なのか社会なのか、という複数の問題を提起するのだ。
著者によると、孤独が悪しきものとなったのは近年のことに過ぎない。『ロビンソン・クルーソー』『ジェイン・エア』、『葬送のフリーレン』、『シャーロック・ホームズ』、ソローやヴァージニア・ウルフ、路上生活だった女性の手記、そして最後に『ライ麦畑でつかまえて』と、ジャンルを軽やかにまたぎ越しながら、悪い孤独と良い孤独の行き来が深められる。
時代とともに良い孤独は、自然の逍遥や自室の静けさのなかで自分と向き合うことへと変化する。しかし良い孤独を手にするためは、背景に経済の安定、社会的な親交や経験の財産が蓄積されていることが条件となる。
では現代はどうか。路上生活を続けた女性が遺した手記である『小山さんノート』を著者は引く。親しい人も生活の糧も失って孤立していく現代の排除型社会では、社会は救ってくれず悪い孤独だけが残る。自分でなんとかできる経済力をもつ人しか救われない。良い孤独は恵まれた人にしか与えられない。
現在せり出してきている孤独の問題は、ホームレス女性のそれであれ、エリート男性のそれであれ、新自由主義と排除型社会の現在がもたらす社会的孤立の問題だ〔…〕。そして、孤立を解消するために私たちは、「社会」を想像し直す必要がある〔…〕。(217頁)
良い孤独を手にするための社会的条件がある。その条件が、誰もが生きやすい社会をつくるという理想を要求する。著者は現代の排除型社会とは別の形の社会を構想しようとする。「良い孤独」という主張に戸惑いを持って本書を読み始めた私だったが、結論にいたって「なるほど」と納得した。
私が最も魅力を感じたのは、著者が思春期に読んだサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を回想した場面だ。社会のなかに居場所を持たない若者ホールデンは、ゲームをしている子どもたちが崖から落ちないように捕まえる役になりたいと、妹フィービーに語る。
ホールデンがなりたいと言うのは、この社会(ライ麦畑)から脱落する(崖から落ちる)人たちを救う、言わばセーフティーネットのようなものであると。ホールデンは自分も含めて社会に適合できない人たちも排除することのない、前章の言葉では包摂型社会、もしくは理想的な福祉国家のヴィジョンをここで述べているのだ、と。(230―231頁)
もちろんホールデン個人の資質で崖から落ちる人たちを救えるだけでは意味がない。遊びに夢中で崖から落ちそうになる子どもが安全に過ごせる社会、そのような社会はどのようなものなのだろうか? 変わり者の青年ホールデンだけがかろうじて夢想できる実現困難な社会なのだろうか? そのような想像力は本書のような人文学にこそ求められているのかもしれない。