雲にハサミを入れる po/e/t/ry

犯人はぼくa
「雲にハサミを入れる —po/e/t/ry—」⑪

最新詩集『ノックがあった』(河出書房新社)発売も話題の詩人、岡本啓さんによるエッセイ連載第11回です。詩を書き始める動機とは何か? その問いから、当時のぼく=犯人と社会とのかかわりの話へ。(タイトルデザイン:惣田紗希)

 このおとこ、時間ばかりあって、じぶんの好きなものを話す相手がいない。なにもはじめていないのになんだかあきらめている。大学はでたが定職につかず、やがて家族ともうまくいかなくなった。未来は見えず、お金もない。なのに最小限しか働かない。おい、おい、おい。声をかけたい。そんなおとこは、やがて二十代後半にさしかかり、自分で載せたなにもしないという重石(おもし)が、とうとうほんとうに重たくなってきて、奇妙な言葉をそとに漏らした。詩というぐらい、ごくわずか。

 そのおとこはぼく。ぼくは詩を書きはじめた。とおくはなれてみてようやくわかった。ごくかんたんにいうと、社会から孤立したその孤独から、ぼくは詩を書きはじめた。でもそのころは、こんなふうに一歩ひいて考えることはできなかった。いまも、なんで詩を書きはじめたのと問われると、どうこたえていいのかわからない。

 詩を書きはじめた理由をつたえるにはどうすればいいだろう。理由としてめぼしいものから書きだしてみる。ホワイトボード一面に。貼った乱雑なメモから、動機をわりだす。話を作りあげてしまわないようすこし慎重に。さあ思いだそう。(なんだかあまり思い出したくないけど)。まずそのころなにを感じていたか。犯人はぼく。で、動機は。

 そのころのぼくは、まず、なにもしていないよろこびがあった。予定もなにもないと無限に生きている気分になる。ところがしだいに、からだにあたる風速が高まっていくのを感じはじめた。

 いまの世はとおい昔にくらべ物質的にずっと豊かだ。けれど、お金がないことへの風当たりはつよい。現代の貧困とは、くらしぶりが貧しいことのつらさではない。広告によって、可能性を見せられて、しかしそのたび目をふせなくてはならない。手も足もでないことがふえていく。もっとよいもの、もっとよい手段、もっとよい――。耳さえ目さえとじていられればこころは落ちついていられるのに。現代人の不幸は、お金をかけず、それでも正しい情報をえるには、広告にふれないわけにはいかないことだ。宣伝と情報が一体化している。一昔前ほど人々はこれといったなにかを欲していないのに、広告が浴びせるさらなる可能性という不幸な罠にとらえられている。未来における選択肢が、むしろ現在の足枷となり、それをひきずるようにしてあるくほかないのだ。

 ぼくのようなひとは、やがてしぜんと目のまえのせかいが欠けていく。タクシーは透けてぼくの視野にもうはいらない。お店も広告もべつの宇宙のことがら。見てもしかたがないから、満月とおもえる日は一日たりとおとずれない。商品、サービス、街中の光も音もそこに焦点をつくる。ぼくには、街が見えないものだらけになっていった。

 あるひとは、そのせばまりゆくせかいで、突如なにかを発見する。ピザ屋くらい手近な範囲に。すべての元凶、ディープステイト、悪の本拠地を。(このすこし後、ワシントンD.C.にいたころ、ぼくはピザゲート事件のあったお店から三十歩のところに住んでいた)。世界中の分断はこうしておこるべくしておこる。その要因のひとつは、こうやって見えるものがつぎつぎ消えていくことにある。

 また、あるひとは、無関心になる。そしてこんどはだれからも見えなくなる。クラゲみたいに透けて街のすみのほうへすみのほうへただよう。そのひとが忘れたぶんだけ、時代から忘れさられフワフワと。そうやって東京の表面をただよいながら、ぼくはため息をついていた。しょうがないけどさ、どこかとおくへ行けたらなあと。

 新幹線はとてもじゃない。飛行機はどこにも実在せず、ただ青空に、手のとどかない白線をひいてとおざかっていく。とおくにいけるのは18きっぷの期間だけ。このさきの人生ずっとだ。あきらめる。肩をおとす。もはやぼくにはわからなくなった。なにもしたくないからなにもしないのか、あるいはただただできないのか。ポケットにねじこんだ文庫本を喫茶店でとりだし、ぼんやり眺めてすごす。そんなひとときはほっとした。電車すこしと、歩ける範囲でどこかへ行って、つかれたとき、そこにあるお店で落ち着いて珈琲を飲めたら。170円のベローチェだけじゃなく、どうにか370円のスタバにも。当時のぼくに夢というものがあったなら、それが夢だった。

 まわりのともだちが、どんどん忙しくなっていくそばで、なにもしないまま何年もたった。そろそろ、きちんと定職につけば。あのころまわりのひとになんど問いただされただろう。働いている時間は、自分が自分でない気がする。ぼくはそうこたえた。

 こたえても、そんなこたえは社会では通用しないのだった。通じないものをかかえている。書くのも話すもの得意でない。そんなひとがぼくだった。そんなひとはそしてめずらしくないのだ。幽霊のようでふだんは見えないけど、あちこちにいる。なぜまともに働かないか、ぼくはまわりのひとに正直に幽霊のようなことばでこたえた。

 通じない。ぼくだけでない。たずねたひとも、どちらもがそう感じていた。それでもかたくなだった、そのおとこは。働かないほうに。

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