ちくま学芸文庫

『増補 アルコホリズムの社会学』解説

11月刊のちくま学芸文庫『増補 アルコホリズムの社会学』(野口裕二著)より、信田さよ子氏による解説を公開します。多くのアルコール依存症者たちのカウンセリングを行ってきた信田氏にとって、本書は「バイブルのような存在」だといいます。それはなぜなのか、カウンセラーとしての自身の歩みを振り返りながら述べていただきました。ぜひご一読ください。

はじめに

 本書は、私にとってバイブルのような存在である。
 
 1970年代からずっとアルコール依存症にかかわり、その経験にもとづいてアディクション全般にカウンセリング対象を拡大してきた。さらにアメリカでアディクション援助の世界が生み出したさまざまな言葉(アダルト・チルドレンや共依存など)に軸足を置きながら、家族と家族の暴力の問題をターゲットにしてきた。
 そんな私の分岐点は1995年にあった。現在まで続くカウンセリング機関を開設したのである。本書が刊行されたのが1996年3月、そして3か月後の1996年6月に私の最初の単著が刊行された。このように私の分岐点と本書の刊行は同時期であり、さまざまな点で重なっているのだ。
 その後、本書の内容に導かれるように、時には守られながら私は歩んできた。私のカウンセラーとしての軌跡は本書と密接に絡まり合っているので、解説しようとすると、どうしても私の歩みを述べることになってしまう。したがってよくあるような距離を取って概観するような解説ではないことを最初におことわりしておきたい。
 
アディクションアプローチ

 ふりかえればもう三十年近く前になるが、1995年、それまでの職場を辞めて、心理職とソーシャルワーカーのスタッフ11人(全員女性)とともに開業心理相談機関を立ち上げた。
 12月も半ばのよく晴れた日に、勢い込んで原宿の片隅でスタートしたことをよく覚えている。当時の私の頭には楽天的な未来像しかなかった。うまくいくに違いないという妄信が私を包んでいた。そんな私の試みが、どれほど無謀でどれほど危ういものだったかをやがて知ることになる。
 なにしろ私たちの土台を支えていたのは、クライエント(来談者)から支払われるカウンセリング料金だ。それが途絶えればたちまち命運が尽きてしまうという冷酷な事実に気づいたのは、すでに走り出してからだった。迂闊でどこか間が抜けていたと思うしかない。
 それからの私は日々のカウンセリング業務を誠実に遂行し、新規のクライエントを獲得するために本を書き、講演活動にも励んだ。それだけでも大変だったが、何より私が焦っていたのは、当時国家資格ではなかった心理職の私たちが「開業」して相談料をクライエントからいただくことの根拠を示すことだった。
 医師でもなく、公務員でもない私たちが、商品を売るわけでもないのに、カウンセリング料金(当時の保険診療の十倍近い)を支払ってもらえるのはなぜか。その根拠を持たなければならない。そうでなければ精神科医の診療とまったく違う援助をしていることが理解されないと思った。
 まず名前を付けなければならなかった。名前がなければ存在しないからだ。こうしてアディクションアプローチが誕生した(『アディクションアプローチ──もうひとつの家族援助論』医学書院、1999)。
 1970年代から二十年余りのアルコール依存症とのかかわりが、カウンセリングセンターの出発の基本となっている。簡単に言えば、アディクションアプローチとは、医療モデルと公的援助(行政)モデルの隙間(ニッチ)に位置する援助だ。それを根拠づける援助論の構築こそが喫緊の課題だった。精神科医の誰かが同じような問題意識から本を書いてしまわないうちに私が書かなければならない、そう思った私は焦っていた。
 
アルコホリズムと医療化

 本書のタイトルにあるアルコホリズムは重要なキーワードである。
 アルコール依存症ではなくアルコホリズムという視点からとらえること、これはとても大きなポイントなのだ。一般の人たちにとって、二つの違いはそれほど大きな意味を持たないかもしれないので詳しく説明する。
 アルコール依存症はひとつの病名である。そのように診断された人は病気であることを意味する。私たち開業心理相談機関は医療機関ではない。したがって病気の治療はできないし、してはならない。なぜなら疾病の治療という医行為は医師にしかできないし、薬の処方や入退院の決定も医師の専権である。実は現在でもこのことはよく知られていないので、カウンセリング機関と外来クリニックとの違いを知らない人が多い。
 一般的に言われるのは、カウンセリングは高い、クリニックは安いという評価だ。そんな単純なお金の問題ではない。クリニックを気軽に受診したとしても、それは疾病を治療する(される)機関なのだ。そこでの援助を医療モデルと呼ぶが、それは基本的に主観・客観の二項対立を内包しており、病気の人を治療する(される)ことから成り立っている。日本では国民皆保険制度によって安価な治療を受けることができるので、援助そのものが医療に包摂されてしまっていることに気づかない。不登校すら時には精神科を受診することも珍しくない。このように社会の隅々にまで医療の網が張り巡らされていくことを「社会の医療化」と呼ぶ。
 健康保険証を呈示してから始まる保険診療の一環は、あくまで疾病治療を中心としている。いくら精神科医が「僕は病気扱いしないんです」と言っても、診療報酬が発生している以上それは制度的には「疾病を治療している」ことになる。多くの精神科医たちが、現行の保険制度の限界を誰よりも感じるがために、新しいアプローチを取り入れたり脱医療を唱えたりするが、投薬治療という特権は手放さなかったりする。そこに一種の欺瞞を見るのは私だけではないだろう。非医療モデルの援助は、医師以外の職種でしか実現できないとつくづく思わされる。
 
その本体は何か

 本書では、アルコールを飲んで逸脱していく人たちがどのように扱われてきたかが明確に記されている。飲んで困った状態に陥る人たちが、それによって家族や共同体から逸脱する人たちが、いつから、どのようにして、なぜ「病気」とされたのか。この点はもっとも私が影響を受けた部分だ。大酒飲みが、病気になることの意味と背景を知ることで、どのように病が社会的に構成されていくかがわかる。このような社会構成主義的視点が、本書全体を貫いている。それにも大きな影響を受けている。
 アルコホリズムは「アルコール主義」と訳されているが、三十年経った今、改めてその意味を確認している。
 60歳を目前にした夫との問題で困っている女性を例にとろう。

 大企業管理職の夫は収入もそこそこあるが、妻である彼女を誉めるどころか貶めて批判するのが日常だった。25歳になった娘は中学時代に母親に対して暴力をふるい、その後家を出て就職をした。夫は結婚してからずっと帰宅後も休日も酒を飲んでおり、それが当たり前だと思っていた。
 職場の健診が発端で夫に食道がんが発覚、手術を受けた。医師はアルコールは飲まないほうがいいと言ったが、退院して一か月の断酒後、夫は飲酒を再開した。彼女は飲酒をやめるように毎日伝えたが、夫は平然と飲酒を繰り返し、術後一年を経て、酒量はすっかり手術前にもどってしまった。
 その女性は不思議でたまらなかった。なぜ夫が飲酒するのかが。
「自分の命がかかっているのに、どうして酒を飲むんでしょう」

 そう尋ねられたとき、私の頭に浮かんだ言葉が本書のタイトルにも登場するアルコホリズムだった。がんの再発など眼中にない行動は、まさにアルコール主義としか言いようがない。彼の世界はアルコールを中心に回っている。自分の命はアルコールの次くらいの位置しか占めていないのだと。
 そのような価値観は、妻からも、一般の人からも理解できないだろう。それをなんと表現すればいいのか。価値観の歪みなのか狂いなのか、どう表現すればいいのだろう。まるで時空が歪むように、彼の世界を形成している秩序は「アルコールを中心として」いるとしか言いようがない。それこそアルコホリズム「アルコール主義」だ。カウンセリングで出会った多くのアルコール依存症者たちが、命よりも酒を飲むことを優先しながら死んでいったことを思い出す。
 アルコール依存症という「病気」の本体はこのような価値観・世界観の歪みにあるとすれば、明らかな病気(統合失調症やうつ病など)よりもはるかに逸脱行為に近いではないか。
 現在でもアディクションは疾病かどうかは明確ではない。もちろん医療機関では疾病として扱われており、専門医や医療機関も存在する。しかし本書を読めば、そのような医療化がどのようにして構成されてきたかという歴史が見えてくる。
 
近代的自己とアディクション

 歴史的構成主義的視点に加えて、本書のもうひとつの特徴は、近代社会論的アプローチにある。アンソニー・ギデンズの論考などを紹介しながら、「近代的自己」とアディクションの関連を述べる部分は、まさに本書の白眉である。何より衝撃だったのは、「近代の自己というフィクション」という表現だった。そのフレーズを目にしたとき、何かに打たれたような思いがしたことを思い出す。アディクションの構造が一気に明晰になり、それで説明できなかったことが言葉にできると思った。そこから思考を巡らせて書いたのが『依存症』(文春新書、2000)だった。
 依存症=病気という視点ではなく、今を一生懸命に生きる人たちに向けて書くことができると思った。私たちがどれほど「自己」というものにとらわれているのか、その結果おちいるパラドックスや反復はアディクションを亢進する。それまで耳慣れなかった再帰性という言葉が、じつにリアルに理解できる思いだった。第10章は本書を基礎づける著者からの問いかけであろう。それは「トラウマ」という生物学的で神経学的な視点が投入されることで、アディクションとトラウマを関連させる援助方法がさまざまに発信されるようになった現在でも変わらないと思う。
 
アディクションカルチャー

 よくも悪くも、日本ではアメリカ由来のアディクション援助法が流行しがちだ。その傾向は21世紀になってますます強くなった気がする。方法論の投入とプログラム化が進むことで、現場では多くの人が「そのとおりに」実践すれば一定程度のアディクション援助ができるようにはなった。それは援助の品質保証という点では歓迎すべきことかもしれないが、私には何かがやせ細ったかのように思えるのだ。
 犯罪なのか病気なのか、それとも単なる逸脱なのか。端的に裁断できない多面性と複雑性に満ちたアディクションは、精神科医療の中でも辺境に位置したままだ。新しくできた心理職の国家資格である公認心理師においても、アディクションはメインの対象ではない。
 1970年代から、アルコール依存症にかかわる人たちには妙な連帯感があった。医師でもソーシャルワーカーでも看護師でも、アルコール業界という名前がつくほど職域を超えた独特なつながりがあった。1980年代に入ると、精神科医斎藤学を中心として、あらゆる職種を巻き込んだ病院から地域へというアディクション援助の波が生まれた。多くの自助グループが誕生し、全国にその波は広がっていった。私も、そして著者もそのムーブメントの中にある時期身を置いたのである。
 1980年代から1990年代にかけてのあの時代は何だったのだろう。当事者という言葉こそ使用されなかったが、依存症者と専門家集団が対等に向き合い、アダルト・チルドレンや共依存という言葉が人口に膾炙し、本書も誕生した。
 アディクションカルチャーともいうべき独特の世界が生まれたあの時代をもういちど振り返ってみる必要があるのかもしれない。その点で、本書の文庫化は時宜を得たものだろう。遅すぎたという意見もあるだろうが、やはり今でよかったと思う。
 
おわりに

 冒頭で私が「バイブル」と書いた理由が納得していただけただろうか。私個人の思索の歩みにとって本書はなくてはならない存在だった。
 手元にある初版本は付箋とマーカーだらけである。そんな本書が文庫化されることで、もっと多くの人に読まれることは我がことのようにうれしい。ギデンズとベイトソンをめぐる自己とアディクションとの考察は、アディクションに関心のある方だけでなく、社会学や哲学の視点からも刺激的な内容だろう。
 ある時期同じ空気を吸ったはずのひとりとして、著者の代表作のひとつともいえる本書の解説を書けたことは名誉なことだと思う。まるでこの三十年の歩みを振り返るようにして解説を書けたことは、私にとってこの上ない機会となった。多くの人に本書が読まれることを心から祈っている。

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