本書はフェミニズム・クィア理論を専門とする著者による、「苦情」の聞き取りと分析の書である。けれど読み終わった後、一本の映画を見たか、もしくは長編小説を読み終わったかのように、どこかへ流され、漂着した感覚が残る。それほど本書の辿る道程が長く、複雑で、苦難に満ちているからで、また語り手のストーリーテリングが特殊で重厚であるからだと思う。
「苦情」と言われた時点で、拒否反応を覚える人は少なくないのだろう。日本語の「苦情」はすぐに、モンスタークレーマーやカスタマーハラスメントといった、それを言う側の攻撃性を連想させる言葉と結びついてしまう。苦情を言う側、言わざるを得なかった側の困難や悲痛よりも、言われる側の迷惑、動揺が共感とともに想起される。それはおそらく、「苦情」が「complaint」である国でもそうなのだろう。著者のサラ・アーメッドは、大学内の性暴力やセクシュアル・ハラスメントに苦情を訴えた人の側に立ち、それが封じ込まれたり、無視されたり、あるいは利用されたりしたのを目の当たりにして、抗議のために教授職を辞した。その辞職はメディアで大きく報道され、本書の訳者の一人である飯田麻結が訪れた、学生たちによるあるアート展示の会場トイレには、真っ赤な文字で「WHERE IS SARA AHMED?」と書かれていたという。
著者が聞き取り、そして本書の中に埋め込んだ「苦情」当事者たちの語りは、それぞれが独立したエピソードであり、一つとして同じ慟哭はない。しかし彼女ら彼らが経験した体験には共通点があり、非常に似通っていて、どれも等しく理不尽である。私は性暴力やハラスメントを取材するライターだが、登場するエピソードの多くが、私がつい最近日本で耳にしたいくつもの事例を想起させるものだった。例えば、苦情を言う側が「協調性がない」と言われ、問題視されること。「ジェンダー不平等に関心があるのは、自分のことにしか関心がない」からだと思われ、フェミニストは「腐ったリンゴ」だと揶揄されるし、肌の色や国籍によってジャッジされて意地悪く排除されること。苦情を言った人は去ることになり、ハラスメントをした人は、その組織に残り続けること。
私は苦情を言う側の体験を「理不尽」と書いたが、そのように感じるのは苦情を聞くつもりがある人だけで、多くの意思決定者は、苦情を言われた側が「理不尽」な体験をしたと判断する。そちら側のストーリーをまことしやかに作り続ける。
それでも苦情を訴える側がそれを口に出さずにはいられないのは、そうしないとそこに存在できないからである。構造から排除されている異物(マイノリティ)である限り、結局は、苦情を言っても言わなくてもそこに居ることはできないのであり、そうであればまだ傷つくことの少ない沈黙を選ぶ人がいても責められない。けれどそうしない人たちの真の動機は、匿名で語られることも多い、バラバラに寸断された、混乱に満ちた個々のエピソードを、普遍的なものに紡ぎあげるためなのかもしれない。
差別される側の受ける被害は、目に見える形の暴力でさえ、なかったことにされがちである。そうであるのだから、苦情を訴えた際に彼女ら彼らが受けた、記録に残らない嫌がらせ、無言の圧力、目に見えない形での排除(二次被害/加害、セカンドレイプ、セカンドハラスメントと呼ばれる)はさらに、知られないし、忘れ去られやすい。
苦情とそれを言う人の排除について。人によってはなぜこれほど字数を割かなければならないのかと思うかもしれないけれど、それは実際にこれまであまりにも、苦情を嫌う人たちの声ばかりが、いつも聴かれてきたからだ。
井戸の中を覗くような重苦しい前半に比べ、本書の後半では語りと聞き取り、そしてシェアが何をもたらすのかが示唆される。希望と呼べば軽薄だが、言語化による排除の可視化の、ここまでの到達点としての光であることは確かだ。
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