高校を卒業したあと、僕はしばらくスーパーマーケットで働いていた。地元ではわりと知られたスーパーで、子供のころから親と一緒によく買い物に行っていた場所だ。
最初のうち、僕のやることは単純だった。毎日のようにトラックで配送されてくる商品を先輩たちと一緒に受け取って倉庫へ運び入れ、棚の商品が少なくなったら、上司や先輩に言われたとおり倉庫から持ってきて棚に補充する。その繰り返しだ。
向いている仕事に選ばれる
そんなことをしばらくやってから僕は野菜の担当になった。年末の八百屋でミカンを売っていたあたりから、どうやら僕は野菜と縁があるらしい。
それなりに機械には強いし数字の扱いだって得意だから、僕としてはレジ打ちでもよかったのだけれども、どうやら店長は僕にはレジ打ちは向いていないと考えたようで、今にしてみれば、店長のその考えは正しかったように思う。お客さんと直接やりとりするような仕事は、たぶん僕には向いていない。
配達された野菜はわざと土をつけたまま店頭に並べることもあるし、キャベツや白菜なんかは半分にカットしてラップで包み、値札のラベルを貼ったりすることもあった。
バックヤードと呼ばれる店の裏側で、僕はそうした作業を毎日続けていた。もともと僕は大勢でわいわい楽しくものごとを進めるよりも、一人で細かなことを淡々とやるほうが気持ちが落ち着くから、バックヤードでの野菜カットはたぶん僕には合っていたのだと思う。
好き嫌いではなく、向き不向きで、仕事が僕を選んだのだ。
見よう見まねでさえない手探り状態
「こうするんや。見ときや」
そう言ったのはバックヤード全体を管理している主任で、四角い顔とずんぐりとした体がロボットのようだった。店長よりも十歳ほど年上だったように思う。店長が妙に高い声であれこれと指示を出すたびに「はい」と唸るような声で答えて、丁寧に頭を下げていた。
主任は、先っぽがボルトで固定されている大きな包丁で南瓜を半分に切り、手早くラップで包んだあと、印字機から頭を出している値札ラベルを台紙から剥がし、パチとラップの上に貼った。くるりと半分回して確認したあと、赤いプラスチックの籠に入れる。一瞬の動作だった。
「ほな、あとやっといて」
一回やって見せただけで、主任はすぐにその場を去った。切るときに南瓜をどんなふうに置くのか、ラップはどれくらいの長さで切って、どちら側から巻くのか、ラベルはどこに貼るのか。何も教えてくれない。今見た動作と、赤い籠の中に入っている数個の南瓜を見て、自分で考えるしかなかった。そう、誰も仕事なんて教えてくれないのだ。
見よう見まねでさえない手探り状態のまま、僕の野菜カットは始まった。それでも繰り返せば慣れてくるもので、何週間か経つうちに、どうすればきっちり正確に野菜をカットできるか、どうやればきれいにラップで包めて、見やすく値札が貼れるかなんてことを工夫するのが楽しくなっていた。けれども、仕事とは世の中に何かを付け加えること、世界をほんの少し変えることだとしたら、それはまだ仕事ではなかった。
それから三か月ほど経った夏の最中に、僕は野菜に加えて新しくリーチインという係も担当することになった。リーチインの意味はまったくわからなかったけれども、上司も先輩もそう言っていたから、どうしてこんな麻雀のような言葉を使うのだろうと不思議に思いつつ、僕もリーチインと言っていた。あれは「リーチイン」ではなく「冷陳」、つまり冷蔵庫の陳列だったのではと気づいたのはそれから十年以上も経ってからのことで、そこでようやく納得がいった。
もともとは「冷陳」だったのだろうけれども、伝言ゲームの結果、いつの間にかそれが現場でリーチインなる謎の用語にすり替わって、それがそのまま引き継がれていたのだろう。
仕事の現場ではよくそういうことがある。その業界でしか通じない言葉、その会社でしか使われない言葉なんてものはいくらでもあって、同じ職業でも言葉が通じないことがある。
たとえば、僕が勤めていた放送局と他の放送局では、特定の作業を指す言葉がかなり違っていたので、共同で番組を作るときにはよく誤解が生まれていた。
自分の行動が世界を変える
さて、リーチインである。僕が主に担当したのは飲み物で、冷蔵庫の中のペットボトルやら缶ジュースが減ってきたら裏の倉庫から持ってきて補充するのは、これまでと同じ作業だったのだけれども、倉庫の在庫がなくなったら本部に発注する役割が増えていて、なんとなく責任を与えられた気がして嬉しかった。とはいえ、これだって誰がやっても同じだから、つまり仕事ではなく作業だった。
あるとき、清涼飲料水の棚が二段ほど空になってしまった。いろいろな飲料メーカーから毎週のように新しい商品が発売され、すぐに消えていった時代のことで、大学生の客が多いこの店ではそうした目新しい飲み物がよく売れたから、欠品してしまったのだ。倉庫にも在庫がない。数日前からどんどん減っているのは分かっていたから、一週間ほど前に本部へ発注していたのだけれども、メーカーでも生産が追いついていないらしく、なかなか入ってこないということがわかっていた。
「店長どうしましょう。棚がスカスカになってます」
「とりあえず棚は埋めておいてくれや」
「何で埋めましょう?」
「そんなんお前がリーチインやねんから、お前が決めたらええやろ」
僕はとりあえず、普段あまり大学生が飲まないタイプの商品を、空になった棚にも並べることにした。さすがに冷蔵庫を空にはできないので、苦肉の策として並べたのだった。
なんと。その日から、それまでたいして売れなかった商品が急に売れ始めた。棚の位置を変えただけで売れたのだ。
買いたかった飲み物が置いていなかったから、代わりに買ったのだろうか。僕は不思議に思って、別の商品をその棚に置いてみた。するとやっぱり売れるのだ。どうやらその棚に並べると売れるようなのだ。やや評判の悪い飲み物でもそこに並べると、飛ぶようにとまではいかないけれども、それなりに売れるから面白い。
メーカーからはどんどん新しい商品が発売される。
「よし、今回はこの商品を売ってみよう」
大学生ならきっと飲みたがるだろうと考えて発注し、例の棚に並べる。予想通りに行くこともあれば、思ったほど売れないこともあるけれども、もしも、ほかの人がリーチインの担当だったらたぶん並べられていなかった商品だ。僕だから売れたのだと思うとかなり嬉しかった。
作業から仕事へ
ここでようやく僕は仕事をしたのだった。僕の行動が世界をほんの少し変えたのだ。ただ倉庫から同じ商品を運んで補充していたときの僕は、作業しかしていなかった。そうか、これが仕事なんだと思った。自分の行動が何かを変える。それが面白かった。
「主任。あの棚に置いた商品が売れるんですよ」
僕は大発見を得意げに報告した。
「せやで。見やすい高さにあるものがよく売れるねん。だから売りたいものがあったらそこに置くんやで」
主任はロボットの顔を変えず、淡々とそう言った。知っていたのかよ。だったらどうして最初から教えてくれないんだ。僕は鼻白んだ。
自分の行動が世界を変えたこと。ほかの人ではなく自分だから変わったこと。それがとても心地よかった。けれども、自分が行動することに執着すると、今度は仕事から抜け出せなくなる罠が待っている。仕事は仕事。いくらでも好きなように変えていいし、嫌になればすぐに辞めて構わない。でも、そのころの僕はそれをまだ知らなかった。