単行本

個人史とパレスチナ史の巧みな融合――『アーベド・サラーマの人生のある一日 パレスチナの物語』書評

ヨルダン川西岸地区で園児たちの乗ったバスが燃えた。アーベドは息子を探して奔走する――。2024年ピューリッツァー賞を受賞したノンフィクション『アーベド・サラーマの人生のある一日 パレスチナの物語』(ネイサン・スロール著、宇丹貴代実訳)が1月10日より発売予定です。中東研究がご専門の高橋和夫氏に、本書の評とイスラエル・パレスチナの歴史についてご寄稿いただきました。刊行に先駆けて公開します。


2冊の本

 本書には、実は2冊の本が隠されている。1冊目は、主人公のアーベド・サラーマが幼稚園に通う息子を失う悲劇の物語である。幼稚園の遠足のバスが事故にあい多くの子どもが死傷した。その中の1人がアーベドの子どもだった。そのアーベドの人生のドラマが語られる。

 その主人公は、イスラエル占領下のヨルダン川西岸のパレスチナ人だ。必然的に占領という圧倒的な事実の陰で生きている。その個人史はパレスチナの現代史と重なり合う。占領、第一次インティファーダ(大衆蜂起)、オスロ合意、第二次インティファーダなどの弾圧と抵抗の記憶と実態が、その人生におおいかぶさっている。

 そのパレスチナの現代史が、実は本書の中の2冊目の本である。この本が、場面に合わせて、状況の理解に必要な情報を提供する。おかれた状況の説明なしには、部外者にはアーベドの苦悩は想像できないからだ。

 さて、よくパレスチナ問題は2000年の長きわたって続く複雑な宗教紛争だと言われる。そうだろうか。単純な話だと思う。宗教紛争などではない。パレスチナの地では19世紀の末までオスマン帝国下でイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が平和に共存してきた。エルサレムで、各宗教の聖地が隣り合って存在する事実は、三宗教の共存の反映である。

 さて19世紀末からヨーロッパからやってきた人々が、自分たちだけの国をパレスチナに樹立しようとした。これに現地の人々が反発した。これが問題の起源である。1930年代には地元の人々は、ユダヤ人の流入を許すイギリスの委任統治支配への反乱を起こした。イギリス当局は、反乱の先頭に立ったパレスチナ人の指導層を徹底的に弾圧した。多くが投獄されたり追放されたり殺害されたりした。これが「アラブの反乱」(本書では「パレスチナ・アラブ反乱」と表記)と呼ばれる事件である。この弾圧で、指導層を失ったパレスチナ人社会は大きな打撃を受けた。これが、イギリス撤退後の1948年の第一次中東戦争でシオニストがパレスチナ人に対して優位に立った一因である。

 この戦争の前後に、シオニストは、現地の人々から土地を奪い、そこに国を建てた。先住の人々の多くは、虐殺され追放された。残った人々は、その国家の支配下で抑圧されて生活している。その内外で抵抗している人々は往々にしてテロリストというレッテルを貼られている。これが大きな枠組みである。単純な話だと思う。入植者が勝ったのである。

 ただ、その支配下での抑圧の形態は多様である。国際的に認められた国境線内のイスラエル国内に住んでいるのか、イスラエルが一方的に併合を宣言した東エルサレムに住んでいるのか、あるいは占領地のガザ地区やヨルダン川西岸地区に住んでいるのかで、パレスチナ人が持たされている身分証明書の種類が違う。それによって、イスラエルが占領地である西岸に張り巡らせた検問所と分離壁とよばれる高い壁の網の目を通れたり通れなかったりする。検問所と壁については、後に、もっと詳しく語りたい。

 

‟地図”に騙される

 しかも占領地であるヨルダン川西岸地区の状況も一様ではない。ガザと西岸の状況は、誤解されている。メディアで目にする地図が、誤解の大きな要因だ。典型的には、下の外務省のホームページのような地図が使われる。あるいは、その下の地図の左下のような図である。イスラエルがあり、そしてガザ地区とヨルダン川西岸の全体がパレスチナ自治区として併存しているという誤解を、こうした地図が生んでいる。

パレスチナ図(出典:日本外務省ホームページ)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/plo/index.html
[アクセス 2024年10月15日(火)]
高橋和夫『なぜガザは戦場になるのかーーイスラエルとパレスチナ 攻防の裏側』(ワニブックスPLUS新書、2024年2月)20ページより

 現実は、そうではない。ガザは前述のように封鎖下にあった。また現在はイスラエルによる激しい攻撃を受けている。そして西岸も実は、イスラエルの支配下にある。1993年にノルウェーの仲介でオスロ合意が結ばれ、ワシントンのホワイトハウスで、その合意の調印式典があった。この合意でイスラエルとパレスチナ解放機構は、相互に承認しあった。そしてガザ地区と西岸のエリコという都市でパレスチナ人の自治が始まった。その他の問題は、将来の交渉に委ねられた。その後、イスラエルは西岸の人口密集地から撤退した。しかし最大都市のエルサレムは例外である。今でもイスラエルが同市の全域を支配している。しかも市域を拡大している。

 今年でオスロ合意が結ばれて以来31年になるが、状況は、そこから一歩も動いていない。もっと言うならば後退しているだろう。というのはイスラエルによるパレスチナ人の土地の収奪が続いているからだ。

 

イスラエル支配の‟海”とパレスチナ自治の‟島”

 西岸の状況を、もっと詳しく見よう。西岸はAとBとCの三地域に分けられる。A地域はパレスチナ暫定自治政府が治安と民生の両方の権限を有している地域である。一応は自治地域といってよいだろう。上の西岸の詳しい地図では、やや濃い目の灰色に塗られた地域である。だが、それでも必要に応じてイスラエル軍が侵入する例もある。

 B地域は、イスラエルが治安権限を持ち、パレスチナ暫定自治政府が民生権を持っている。実質イスラエルの支配下である。薄い灰色に塗られた地域だ。そしてC地域ではイスラエルが治安権限も民生権も持っている。何も塗られていない白い地域である。

 さて繰り返そう。パレスチナ暫定自治政府が実際に統治しているのはA地域のみである。そのA地域は、狭く、いくつもに分断されている。

 オスロ合意後の1994年にPLOの当時の議長だったヤセル・アラファトがパレスチナに戻ってきた。そしてアラファトは、西岸とヨルダン川全体を領土とし、東エルサレムを首都とするパレスチナ国家を建設しようと民衆に訴えた。

 だが現実に存在する「自治」は、穴だらけのスイス・チーズのようなものだ。しかも自治地域は穴の方である。西岸の風景は、かつてのアパルトヘイト(人種隔離政策)時代の南アフリカを思わせる。そこでは有色人種はバンツースタンと呼ばれた狭い地域に押し込められていた。本書の表現を使えば、限定的な自治権しか持たない165の「島」が、イスラエルの支配地域の「海」に浮かんでいる。それが、西岸の風景でありオスロ合意以降の和平プロセスの成果だった。

ヨルダン川西岸地区のユダヤ人入植地(筆者撮影 2015年9月)

 

ピザを食べるイスラエル

 オスロ合意では、将来のパレスチナ国家とイスラエルの最終的な国境に関しての交渉を規定しているのにもかかわらず、イスラエル側は実質上は交渉に応じず、既に述べたように西岸のパレスチナ人の土地の収奪を進めている。パレスチナ人がよく使う例を借りれば、二人でピザを分ける話し合いをするべきなのに、一人が既にピザを食べ始めている状況だ。食べているのは、もちろんイスラエルである。

 ユダヤ人の入植者の住む入植地は、地図では黒く塗ってある。「ピース・ナウ」というイスラエルの団体の調査では、西岸に住む入植者は47万8600人である。入植地は、147か所が建設されている。その他に201か所のアウト・ポストと呼ばれるミニ入植地が存在する。そもそも占領は国際法違反であり、そこでの住民の土地を奪っての入植は、二重の国際法違反である。さらに入植者たちは武装してパレスチナ人を威嚇し襲撃している。しかもイスラエルの軍や警察は、入植者に加勢するありさまだ。

 こうした入植地が、将来のパレスチナ国家の領土となるべき地域に散在している。それは、あたかも体内に突き刺さった鋭いガラスの破片のようである。問題の平和的な解決を阻むかのように。

 さらに入植地と入植地を、そして入植地とイスラエルをつなぐユダヤ人専用の道路が建設されている。イスラエル人とパレスチナ人の車には違う色のナンバープレートが付けられている。イスラエル人の車は黄色でパレスチナ人の車は緑である。この道路は黄色いナンバープレートのイスラエルの車しか使えない。まさにアパルトヘイト体制が西岸に構築されている。

 また西岸の各地にイスラエルによる検問所が設けられている。既に紹介したようにだ。その通過の際に荷物や身分証明書の検査が行われる。また恣意的に通行が拒否される。出産間際の妊婦が検問所で待たされるような事件も頻発している。さらに当局によるパレスチナ人の家屋や井戸の破壊、大切なオリーブの木の伐採、夜間の家屋への侵入など、占領下での破壊と人権の蹂躙はとどまるところを知らない。

 そのうえ、やはり前に紹介したようにテロを防ぐという名目で高い厚い壁が西岸に建設されている。これは国際的に認められた国境線に沿ってではなく、ヨルダン川西岸地区に食い込むように建設されている。イスラエルとパレスチナを、イスラエルと西岸を分断するのではなく、パレスチナとパレスチナを分断するアパルトヘイトの壁である。壁は、場所によってはパレスチナの農民を自らの土地から切り離すなどの無数の悲劇を引き起こしている。

 しかも、西岸では十分な雇用機会がないので、多くのパレスチナ人がイスラエルに肉体労働者として出稼ぎに通う。パレスチナ人は教育に熱心だが、たとえ高度な教育を受けても、それにふさわしい仕事が、なかなか見つからない。このように、パレスチナ人にとっての日常は、苦痛と屈辱に満ちている。

 本書は、その複雑で錯綜した抑圧の形態を背景として発生した交通事故の物語である。この2冊目の本が、1967年から続く占領とアパルトヘイトの風景を詳細に描き出している。

 

アーベド・サラーマの人生のある一日

 この個人史とパレスチナ史の流れを巧みに融合させながら、本書はクライマックスの一日を導き出す。(略年表は下記参照)

 主人公のアーベドが子どもを失った交通事故はエルサレムの郊外で発生した。多数の子どもたちが事故で死傷するのだが、イスラエルの検問所に、壁に、そして無関心と悪意に阻まれて、救助は難航する。救助に当たった人間の持っていた身分証明書によってイスラエルの病院に運ばれた子どももいれば、占領地の病院で治療を受けた子どももいた。占領の不条理と矛盾が集中的に露呈された場面である。

 おそらく本書のタイトルにインスピレーションを与えたのはロシアの文豪アレクサンドル・ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』だろう。ソルジェニーツィンは、収容所で暮らす人物の一日を描きながら、スターリン体制そのものを告発した。本書もアーベドの一日にイスラエルの占領支配の歴史を凝縮している。その語りは、さし迫った破局を予感させる。

 

【略年表】
19世紀末 シオニストのパレスチナ移住始まる
1930年代 アラブの反乱
1948年 イスラエルの成立
1967年 第三次中東戦争、イスラエルがガザと東エルサレムを含む西岸地区を占領
1987年 第一次インティファーダ
1993年 オスロ合意
2000年 第二次インティファーダ

 

 


 


 

『アーベド・サラーマの人生のある一日 パレスチナの物語』

2024年ピューリッツァー賞受賞作

占領とは何かを問う悲劇のノンフィクション

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