追悼文を書かないといけないのですが、打越くんのバカ話ばかり思い出して笑ってしまいます。笑っていると、あれ、そもそも私は何を書こうと思っているんだっけと追悼文のことを思い出して、ああ、もうここにはいないんだと確認しています。
1か月近く、こんなかんじで打越くんの不在を何度も確認してくたびれてしまいました。しょうがないので、打越くんのバカ話を書こうと思います。
初めて打越くんの名前を聞いたのは、私が東京で大学院生をしていたころです。琉球大学の教育学部の数学科の学科室に打越正行というひとが住んでいて、そのひとは誰にも求められていないのに、ひとりで社会学の卒論を書いているとのことでした。
噂のひとである打越くんに初めて会ったのは、沖縄に帰省していた夏、打越くんが勝手に卒業論文を提出すると決めた教育社会学者の長谷川裕さんの英文読解の自主ゼミでした。私が「数学科に住んでいる打越くん?」と尋ねると、「そうです、追い出されてしまって、数学科の先生たちに相談して住ませてもらっています」とのことでした。
あとで聞いたら、ダンディーで穏やかな松本修一先生や、破天荒でのちに学部長になった小田切忠人先生が会議でたくさん話し合って、打越くんが学科室で暮らすことが決まったとのことでした。
そういえばその日の英文の訳出は打越くんだったのですが、「悪文ですね。こんな文章、外人は意味がわかるんですかね」と文句を言っていたので、長谷川さんが笑いながらすごく丁寧に説明していました。打越くんには、そういう何か、その道のプロの先生たちに大事にされ、そうやって大事にされることを当然だと思っているような節がありました。
フィールドワーカーである宮内洋先生が非常勤として沖縄に来てくれたころ、おもしろい授業を受けたと、まくしたてるように話していました。
宮内先生仕込みのフィールドワークの方法は打越くんに合っていたようで、バイクを盗もうとしていた少年たちや、暴走族の子たちによく話しかけたりしていました。深夜の暴走族は、警察に追いかけられているのでみんな殺気立っているのですが、当の打越くんは「なんかギラギラしていて、生きているってかんじがするんですよ」と楽しそうでした。
一緒に調査をしようと話したのは、私が琉球大学に就職したあとの2010年です。
ちょうどそのころ、千葉大学の新谷周平さんが学部のゼミ生を連れて沖縄に来ていて、沖縄タイムスの記者になった與那覇里子さんや研究者になった知念渉さんが学部生として発表する、いま考えるとほんとうに豪華な合同ゼミでした。
その日、新谷くんはとりわけ打越くんの研究をおもしろがっていて、今日はほんとうに全部の発表にしっくりきた、ほんとうに楽しい研究会だったと興奮していて、ふたりは連絡先を交換していました。
私は打越くんと一緒に女性の調査をしたいと思っていたので、その夜の飲み会で、「夜の街の女の子たちの調査をしよう」と話しました。すると、打越くんから「ずっと一緒に調査をしたいと思っていたんですよ。ギャラリーの女の子の話はお手上げなんで上間さんがインタビューしてください」といわれました。
調査の内容がずれているから大丈夫かなと思いながらも握手して、「いや、ギャラリーの子のインタビューは一緒にしてもいいけど、それを書くのは打越くん」といいました。そのあと、打越くんはノーヘルでバイクを運転して帰っていきました。握手は失敗だったかな、ほんとうにこの調査は大丈夫かなと思いました。
そうやって始めた風俗の調査は、毎回のように何かが起こり、そんなに大丈夫ではありませんでした。
風俗店のオーナーとドライブしている最中に打越くんが眠り込んだり、何度も同じ質問をして、「さっきもそれ話したよ」とキャバ嬢を怒らせたり、アポをとっていたキャバ嬢をコンビニの駐車場で待ち続け、明け方ようやく来てくれたのに、打越くんが「疲れているでしょうから」といって帰してしまったり、相手の話を聞かずに自分の話ばかりしたりして、打越くんは私にこっぴどく叱りつけられました。
あるとき、風俗店のオーナーが「打越から聞いていたイメージとちがう、上間さん、優しそう」というのでよくよく聞いてみると、インタビューのあとのモスバーガーで「地獄の反省会」をやっていると打越くんが話していたことがわかりました。そんなに地獄だったかなと思いますが、あれだけ怒られたらたしかに地獄かもしれないと、これを書きながら思ったりしています。
打越くんにとって、暴走族のみんなはとても大切な、なにか友だちのような存在なんだとわかったのは、上地さんのインタビューのあとです。
大きな事故を起こしていて、足や背中にボルトを入れて日常生活をおくっている上地さんは、沖縄の58号線の伝説の飛ばし屋です。初めて会ったときに、「スピードメーターって400キロとかあるけど、ほんとはそんなに出ないんですよ。200キロくらいですかね」といって私の車を運転しようとしたので、身体を張って阻止したときも、打越くんは楽しそうに笑っていました。
上地さんへの何度目かのインタビューは、別れた妻をなぐった上地さんが警察から釈放されたあとでした。海沿いのおしゃれなカフェでのインタビューでしたが、妻に暴行したときのことや逮捕されたときのこと、そして家族のいない家に帰っていくときの寂しさを話していた上地さんが突然オイオイと泣き出すと、打越くんもまた泣きだして、まわりの観光客はなにか奇異なものをみるように私たちを眺めていました。
その後、上地さんをおうちまで送り届けると、畳間に年賀状がおかれていて、それは上地さんと妻が寄り添い、ふたりの間で笑っている子どもたちが並んだ家族写真の年賀状でした。
上地さんがやったのはひどいことだけど、それでも上地さんが家族に謝罪できて、いまの孤独が取り扱い可能な程度の孤独におさまるといいなぁと思いながら、仏壇にお線香をあげていると、打越くんが上地さんの部屋からピンク色の巨大なバイブレーターを持ち出してきて、「上地! これ、どうやって使うの?」とぎゃははぎゃははと笑いながら、ふたりでふざけだしました。
線香の香りのする部屋で、上地さんの先祖は怒らないのか罰はあたらないのかと思いながらも、こうやって慰めあっているんだなぁ、ふたりは本当に友だちなんだなと思いました。
病気の診断のあと、打越くんは上地さんには弱音も吐いていました。上地さんが、自分の骨髄をいくらでも使ってほしいと話したら、打越くんは泣いたそうです。上地さんも、あれからしょっちゅう寂しい寂しいと泣いています。ほんとうにふたりはよく泣くなぁと思います。
『ヤンキーと地元』を出版するときは、ほんとうに苦戦していました。
それまで打越くんのことを大事にして支えてきた岸政彦さんは、ある日、覚悟を決めたように「打越、ゼミしよう。4日間、時間をつくった」といって、文章指導のためのゼミを開催しました。
『ヤンキーと地元』の文章指導のゼミは、上原健太郎さんや私にも案内がありました。初日の朝、「岸の部屋」にアクセスすると、打越くんと岸さんは向かい合って打越くんの文章を直していて、夜またアクセスすると、ふたりはまだ同じ姿勢のまま打越くんの文章を直していました。
岸政彦さんの文章指導を10時間も12時間も受けることは、ありえないことだと思います。でも岸さんは、「天才を助けるのは当たり前だ」と言い切っていて、打越くんもまた平気な顔をしていました。
ほんとに打越くんには、そういうところがありました。それぞれが持てる力を出して、みんなで力を合わせればいいんだというような。世界は美しくおもしろいのだから、それを発見して、それをどう伝えるかは、みんなが自分の持っているものを持ち合って総力戦でやればいいというような。
そんなふうだったので、4人の飲み会はいつも、トランスクリプトの解釈についての検討だったように思います。自分の聞かせてもらった話を、どう解釈するのか、どう考えるのかということを、いつまでもいつまでも話し続けていました。
出版された『ヤンキーと地元』は、多くのひとに読まれ、沖縄書店大賞も受賞しました。
本の評価もあったのか、打越くんは和光大学の社会学公募の最終面接まで残りました。打越くんと和光大学の相性はよさそうだと思いましたが、面接が終わり、沖縄に帰る船に乗る直前の打越くんから思いつめた声で電話がありました。
「面接が終わりました。海に飛び込みたい気分です」というので、心配しながら「何があったの?」と聞きました。「面接したひとたちから、わしの研究に対する質問はひとつもなかったです。授業をいくつもてますかとか、委員会に入ることができますかとか、そういうくだらん質問ばっかりされました。どんな調査だったかとか、おまえの論文は意味がわからないとか、そういう質問はほんまひとつもなくて」と泣きながら、がっかりしていたので、「説明してあげるから、早く帰っておいで」といいました。
あのね、それは大学の最終の面接試験で、未来の同僚に尋ねる言葉です、打越くん。
もうすでに和光大学には、打越くんの研究をおもしろがっている研究者たちがたくさんいて、打越くんの研究に対する信頼はなにひとつゆるがないと思っていて、東京にきて一緒に働くその日を待ちかまえているということです。だから打越くん、また新しい旅が始まるよ。打越くんはもうすぐ、沖縄から旅立っていくんだよ。
そしてやっぱり、打越くんは和光大学に採用されました。採用が決まったとき、みんな「よかったなぁ、ほんとによかったなぁ」といいあって、たくさんたくさん笑いました。
その夏の終わりに、大きな台風がありました。
台風のあと、打越くんから「上間さん、島バナナ、ひと房もらいますか?」と電話をもらったので「もらう!」といったら、花房がついた島バナナの木をまるごと持ってきました。
「こんなにいっぱい?」と驚いたら、「あと3本あります」といって、バナナの木を3本車に積んでいました。「いらんし!」といったら、「だったら沖組に届けます」と笑っていました。
打越くんからもらったバナナは100本近くありました。食べても食べてもなくならない果実は、豊かな打越くんの人生みたいだな、と思います。
これ、ほんとのことですかね、打越くん。私が打越くんの追悼文を書くなんて、なにかのギャグみたいです。
打越くんの葬儀の日は晴れていて、空気が澄んでいて、みんないつまでも帰ることができずにそこにいました。
どこかから打越くんが現れて、遅刻してすいませんすいません、あー、じゃあまずは私がしゃべりましょうかといって、なんで遅刻したおまえがしゃべるねんというつっこみが入ってみんなが笑い、それでも打越くんはちっとも気にせずに、さあみなさん、さあ始めましょうと、いつもの手ぬぐい姿で手をパンパン叩いて、この世は驚くほど広く、美しく、まだ出会っていないひとがどこかであなたのことを、あなたに新しい物語を聞かれる日を待っていますといいながら、もういちど新しい物語が始まるような、そんな気持ちのいい日曜日でした。
青い空の下、いつまで待っても主役が現れないので、私たちはみんな帰ることができずにそこにいました。青い青い、あっけらかんとした青い空でした。