地方自治体の問題が全国で大きく報道されることはめったにない。だが2024年、兵庫県で起きた事件は別だった。
ことの発端は24年3月12日、「斎藤元彦兵庫県知事の違法行為等について」と題された匿名の告発文書が、県議、警察、報道機関など、複数の外部通報機関に送付されたことだった。そこには「違法行為」「贈答品の受取」「パワハラ」など七つの項目に関する斎藤知事とその周辺の疑惑が記されていた。
問題はこの文書が斎藤知事の手に渡った後の知事の行動だ。
▼知事は部下に命じて告発者を西播磨県民局長のA氏(60歳)だと特定し、A氏のパソコンを押収。県民局長職を解任し、3月31日付で退職予定だったA氏の退職を取り消した。
▼3月27日の会見で知事はA氏の文書を「事実無根の内容が多々含まれている」「業務時間中なのに嘘八百含めて文書を作って流す行為は、公務員としては失格」などと批判した。
▼5月7日、県の内部調査は「文書は核心的な部分が事実ではない」と結論づけ、A氏を停職三か月の懲戒処分にした。
▼だがその後、A氏の告発に事実が含まれていることが判明。6月13日、兵庫県議会は百条委員会の設置を決定した。が7月19日の百条委を控えた7月7日、A氏が死亡。自殺とみられ「一死を以て抗議する」という趣旨のメッセージも残していた。
ここまでがいわば事件の第一ラウンドである。
その後、86人の県議全員が知事に辞職を求めるも、知事は応じず、県議会は全会一致で知事の不信任を決議(9月19日)。斎藤知事は失職となり、その後の出直し知事選で再選された(11月17日)。ところが今度は、斎藤氏の選挙に関与したPR会社代表が選挙戦の内幕を暴露して公選法違反疑惑が浮上。もっか事件は知事選をめぐる第二ラウンドに突入している。
当分終わりそうもない騒動。しかしひとまず検証すべきはA氏の内部告発と知事の対応である。参考図書を読みながら考えてみた。
斎藤知事は白だった⁉
葵あすか『ルポ兵庫県知事選』には「兵庫県庁内部告発文書パワハラ・おねだり事件の真相を暴く」という長いサブタイトルがついている。アマゾン経由で出版された薄い本だが、11月末の時点で唯一の、事件に関するレポートと雑感を述べた書だ。
〈私は、怪文書を読むまでは斎藤知事が「黒かもしれない」という前提で今回の騒動を見てきた〉が、〈怪文書を読んでから、その見方が「白かもしれない」に変わった〉。
簡単にいえば、右がこの本の骨子である。A氏の告発文書は〈まさに怪文書そのものだった〉〈書かれていることは、悪口や思い込み、決めつけ、伝聞、想像のオンパレードで、公益通報としての形式や説得力をまったく欠いていた〉と著者はいう。
これは一考に値する意見であり、問題の文書を一読すれば「たしかにね」と思う人が多いだろう。「パワハラ・おねだり疑惑」として報道された文書には次の七項目が記されていた。
①五百旗頭真先生ご逝去に至る経緯(片山安孝副知事が公益法人理事長に副理事長二人の解任を通告し、理事長の命を縮めた)
②知事選挙に際しての違法行為(21年の知事選で、県幹部四人が知人らに斎藤知事への投票依頼などの事前運動を行った)
③選挙投票依頼行脚(24年2月、斎藤知事が商工会議所などに次の知事選での投票を依頼した)
④贈答品の山(視察先企業から高価な物品を受け取った)
⑤政治資金パーティー関係(片山副知事らが商工会議所などに補助金カットをほのめかし、知事のパー券を大量購入させた)
⑥優勝パレードの陰で(23年11月の阪神・オリックス優勝パレードの資金集めで、片山副知事らが信用金庫への補助金を増額し、企業協賛金としてキックバックさせた)
⑦パワーハラスメント(職員を怒鳴りつける、机を叩いて激怒する、幹部とのチャットで夜中や休日でも指示を出すなど)
報道された「おねだり疑惑」は④を、パワハラ疑惑は⑦を指すが、それ以外はたしかに妙だ。①は因果関係の証明ができず、②③⑤は公選法違反疑惑。④は収賄罪が成立する可能性もあるが微妙。実際、出直し選挙後、斎藤知事を公選法違反容疑で刑事告発した郷原信郎弁護士も、知事の対応には問題があったとしつつ、この中で公益通報者保護法の「通報対象事実」に該当する可能性があるのは⑥だけだと述べている(Yahoo!ニュース・11月23日)。
また、①⑤⑥の当事者は片山副知事で、片山氏は県政の混乱を招いたとして8月31日付で辞職している。
するといったい何が問題なのだろうか。葵あすかは告発文書が怪文書である以上、斎藤知事が「事実無根」と発言し、A氏を懲戒処分にしたのは正当な判断だったと主張するが、本当だろうか。
問題の根幹である公益通報者保護法に立ち戻ってみよう。
職場の不正を職員が告発し、会社が告発者を不当に罰する。こうした事態を避け、公益通報者(告発者)を保護するために設けられたのが公益通報者保護法である。日本では04年に公布され(施行は06年)、20年に改正された(施行は22年)。
奥山俊宏『内部告発のケーススタディから読み解く組織の現実』には多様な事例が出てくるが、これを読むと公益通報(内部告発)がいかにハードルの高い行為かわかる。
不正を認識した人が公益通報できる先は、①事業者内部(一号通報=社内の通報窓口や上司など)、②行政機関(二号通報=警察など)、③外部機関(三号通報=報道機関など)の三つで、①を内部公益通報、②③を外部公益通報という。
本来は内部通報により社内で事態が収拾されるのが望ましい。だが実際にはどうか。精密機械メーカー・オリンパスの場合、07年、不正な人事をコンプライアンス室に訴えたH氏(本では実名)は不当な異動を強いられ、〈社外の人脈との接触を禁じられたうえに、およそ達成できない業務目標を設定され、最低レベルの成績評価をつけられた〉。H氏は会社を提訴し、11年の控訴審で逆転勝訴したが、ここまで粘り強く戦える人は少ないだろう。
こうした事態を踏まえ、改正法では従業員301人以上の事業者に、①内部公益通報機関の体制整備と、②通報があった場合の調査、および③是正に必要な措置、を義務づけている(11条)。11条の指針はまた〈公益通報者を特定しようとする行為「通報者の探索」を防ぐための措置〉を求めている。
以上を兵庫県のケースに当てはめると、告発者であるA氏を探しだして特定し、告発に対する十分な調査を行わず、A氏を懲戒処分にした斎藤知事は、公益通報者保護法違反の疑いが濃い。ちなみに本書の著者の奥山も、9月5日の兵庫県議会百条委に参考人として出席し、ほぼ同様の意見を述べている。県議会が知事に不信任を突きつけた主な理由もそれだった。知事が問われているのはパワハラでもおねだりでもなく、公益通報者保護法違反だったのだ。
パワハラは公益通報の対象ではない?
ではA氏の告発文書は、本当に公益通報の対象事実にならないのだろうか。消費者庁のQ&Aによると、パワハラやセクハラは罰則を伴う法令違反ではないため、公益通報の対象には該当しないとされている。ただし、それが暴行・脅迫や強制わいせつなどの犯罪行為に当たる場合は公益通報に該当し得る。となると問題は、犯罪となるパワハラとならないパワハラとの境界、あるいはパワハラとパワハラにならない場合との境界である。
20年6月から施行されたパワハラ防止法によると。パワハラとは、①職場における優越的な関係を背景とした言動で、②業務上必要かつ相当な範囲を超え、③労働者の就業環境が害されるものを指す。また、厚労省はパワハラの典型例として、①身体的な攻撃、②精神的な攻撃、③人間関係からの切り離し、④過大な要求、⑤過小な要求、⑥個の侵害の六項目を示している。
以上を勘案した上で、井口博『パワハラ問題』はアウトとなる具体的な事例をあげている。殴る蹴るなどの暴力行為はパワハラ以前の暴行罪で完全にアウト。大声で「何だこれは!」などと怒鳴るのも、書類を机に叩きつけるのも、威圧的言動と見なされてアウト。「給料泥棒」「新入社員以下だ」といった人格否定発言もアウトである。私用を命じる、長時間にわたって叱責する、他の職員がいる前で叱責する、すべてアウトだ。言葉だけの攻撃でも「殺すぞ」などの発言は脅迫罪、PTSDなどの精神疾患を発症した場合は傷害罪、つまり刑事犯罪に問われる可能性がある。
兵庫県に話を戻すと、右に照らせばA氏の文書の⑦で指摘された知事の言動はすべてパワハラ、文書をめぐる知事の対応(退職の取り消し、「公務員失格」発言、懲戒処分)もパワハラに該当しよう。先に紹介したオリンパスの控訴審でも、裁判所は複数の上司の暴言などH氏に対する一連の行為をパワハラに認定した。
A氏の告発文書はたしかに通報対象に該当しない事案が入っていたかもしれない。だが公益通報者保護法の趣旨は告発者の摘発ではなく保護、職場の改善なのだ。〈公益通報者保護法の対象に入らない内部告発についても、従来にも増して保護していくべきだというのが立法者の意思〉だと奥山も述べている。
定年退職間近だったA氏は退職の置き土産くらいの気持ちで文書を送った可能性もある。それに過剰反応してA氏を処分した斎藤知事はまさにパワハラ体質。おかげで自分は議会に突き上げられ、A氏も命を断つに至った。知事が初動でキレさえしなければ、こうはならなかったのではないか。残念でならない。
【この記事で紹介された本】
『ルポ兵庫県知事選 ―― 兵庫県庁 内部告発文書 パワハラ・おねだり事件の真相を暴く』
葵あすか、自費出版、2024年、1601円(税込)
〈なぜ、斎藤元彦知事は失職させられたのか?〉(表紙コピーより)。著者は会社員(兼)キンドル作家。事件の発端から出直し選挙後までを時系列で追い、著者なりの私見を記す。告発文書は怪文書だとし、知事が失職させられたのは改革を進めすぎたからだと結論する。強引な論法が目立ち、公益通報者保護法の解釈にも疑問が残るが、予断にとらわれず公平に見ている点は買い。
『内部告発のケーススタディから読み解く組織の現実 ―― 改正公益通報者保護法で何が変わるのか』
奥山俊宏、朝日新聞出版、2022年、2530円(税込)
〈事業者⇆従業員の関係性はどう変わるのか?〉(帯より)。著者は元朝日新聞記者で上智大学文学部新聞学科教授。記者として取材した公益通報(内部告発)の豊富な事例を示しつつ、20年に改正された公益通報者保護法のポイントを解説する。460ページ超の厚さに加え話が細かすぎるのが難点だが、オリンパス、日本郵政、財務省ほか各事例は具体的で、保護法の重要性がわかる。
『パワハラ問題 ―― アウトの基準から対策まで』
井口博、新潮新書、2020年、880円(税込)
〈えっ、どれがアウト⁉ 弁護士が徹底解説!〉(帯より)。著者は弁護士。多数のパワハラ相談を受けてきた経験を踏まえ、20年6月に施行されたパワハラ防止法について解説する。パワハラ予防法から、危機管理術、過去の判例まで内容は盛り沢山。白か黒の判断基準は①業務上の必要性(部下にとって必要か)、②言動の態様(指示指導の仕方)だと述べるなど具体的でわかりやすい。