はじめに
谷川俊太郎の詩「うそ」には印象的な文がたくさん出てきます。
おかあさんはうそをつくなというけど/おかあさんもうそをついたことがあって/うそはくるしいとしっているから/そういうんだとおもう
いぬだってもしくちがきけたら/うそをつくんじゃないかしら
うそをついてもうそがばれても/ぼくはあやまらない/あやまってすむようなうそはつかない
だれもしらなくてもじぶんはしっているから/ぼくはうそといっしょにいきていく/どうしてもうそがつけなくなるまで/いつもほんとにあこがれながら/ぼくはなんどもなんどもうそをつくだろう(*)
私はこの詩を何度も読んでいるのですが、いつも考え込んでしまいます。一方で、何となく自分でも理解していることが書いてあると感じます。他方で、本当のところ何が言われているのかははっきりとは分からないという気持ちがします。もちろん、詩の解釈に正解などないでしょう。でも、その何かをどうしても自分なりにつかみたい。そういう思いにかられるのです。
例えば、「いぬだってもしくちがきけたら/うそをつくんじゃないかしら」という部分はどうでしょう。本当に犬が噓をつくようになるかは誰にも分かりません。しかし、このように問う時、噓をつくことができるのは言葉をもつ動物だ、ということは共有された前提となっているように思われます。言葉をもつことが人間を犬などの他の動物から区別しているという考え方はポピュラーなものであり、西洋哲学においても「ロゴス(言葉)をもつ動物」は人間の定義としてずっと通用してきました。こうしたことは私も理解していると思えることにあたります。
しかし、「いぬだって〜」と続くこの問いでは、犬も言葉を話すようになれば噓をつくようになるという可能性が語られているのが気になります。そういうことだとすると、人間の子どもも言葉を覚えるとともに噓をつくような存在になっていく、ということかもしれません。それにしても、言葉を話せるようになるということは本当に大変なことです。このことは外国語の学習を思えばよく分かることです。ドイツ語で噓をつけるようになるには、相当なレベルにまで達していなければなりません。その他のコミュニケーションの場合と同じように、文を適切に構成し、相手に伝わる発音で話すというだけでなく、噓の場合には、噓をついていると相手に悟られないように話す技術も必要です。そうだとすると、大人は、子どもに言葉を教えながら、同時に噓をつけるような存在を育てているということかもしれません。
もちろん、大人にはそんなつもりはないでしょう。「おかあさんはうそをつくなというけど」とあるように、言葉を覚えた子どもに大人は決まって噓はつくな、噓は悪いことだと教えます。では、どうして大人は噓は悪いと考えているのでしょうか。「うそはくるしいとしっているから」というのは面白い着想です。たいていは、相手を傷つけるから、といった答えがまず返ってくるものだからです。噓は悪いという理解も一枚岩ではないということでしょう。
噓は相手だけでなく自分も苦しめる。それだけ噓は悪いということが分かっていても、この詩では「うそをついてもうそがばれても/ぼくはあやまらない」と言われています。しかし、どんな噓だってついてよいんだ、ばれたって謝らないんだ、と開き直っているわけではありません。「あやまってすむようなうそはつかない」と言われているからです。悪いと自分で分かっているような噓はつかない。でも、絶対に謝らないぞと心に誓うような噓もあるということのように思われます。
こうしたことであれば私にも理解できます。哲学においては、噓はどうして悪いのかという問いは、たいてい、どんな噓でも悪いのかという問いとセットで探究されます。相手から利益を得ようとして噓をつくとか、自分の過ちを隠したりごまかしたりするために噓をつくことは、たしかに悪いでしょう。そのような噓がばれたら私たちは謝って許してもらおうとするでしょうし、そんな噓ならつかないほうが良いに決まっていると多くの人は考えるでしょう。しかし、全ての噓がそういうものではないはずです。相手を思いやって噓を言った場合とか、圧力や強制によって言いたくもない噓を言わされた場合には、噓がばれても謝って許しを乞うというふうにはならないでしょう。
しかし、最後の部分「だれもしらなくてもじぶんはしっているから/ぼくはうそといっしょにいきていく」を読むと、この詩ではもう少し違う噓が話題になっているように思えるのです。自分だけが噓だと知っている噓があり、その噓を抱えてその噓と一緒に生きている。このような経験は、私にも思いあたるところがあります。どうしても本当のことを他人には言えないようなプライベートな自分の部分があるということではないかと思います。きっと多くの人にもそういう部分があるでしょう。しかし、その後、「どうしてもうそがつけなくなるまで/いつもほんとにあこがれながら」とあります。単に、噓を抱えて生きる、それで良いのだ、とすっきり思えているわけではないのです。噓がもうつけなくなって噓まみれの人生から解放される瞬間が訪れるのを心から憧れている、という気持ちが吐露されているように感じられます。なぜ噓まみれの人生ではなく、噓のない人生に憧れるのでしょう。これも興味深い問題です。哲学では、噓はどうして悪いのかを問うだけでなく、誠実さとは何か、正直であるとは何かも論じられてきました。そうした議論に手がかりがあるかもしれません。
ここで本書の三章の構成を確認しておきましょう。
第一章:噓をつくとは何をすることか
第二章:噓をつくことはどう悪いのか
第三章:それでもなぜ噓をつくのか
詩「うそ」からの抜粋をもう一度読んでみてください。この詩はさまざまな問いを喚起します。本書『「噓をつく」とはどういうことか―哲学から考える』では、それらの問いについて考えるために哲学の考えをさまざまに活用していきたいと思います。そのためには、少なくとも各章のタイトルのような三つの問いが必要であり、少なくともこの三つの側面から多面的に考察することなしには、噓について本気で考えたことにはならない、というのが本書の立場です。
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私たちの誰もが噓をついたり、噓をつかれると怒ったり、噓をついてはいけないと他人に言われたり他人に言ったり、自分に言い聞かせたりしています。しかし、噓について哲学的に考えたことのある人は少ないでしょう。
噓は、身近な話題から哲学的に考える練習をするとても良い題材で、人間という存在の複雑さも面白さも、滑稽さも尊さも教えてくれるものだと思います。言葉をもつ。善悪の区別をつける。心をもつ。これらは人間の主な特徴づけです。それらの三者が一体になっているのが噓というものです。そしてこの三者が各章に対応しています。
これから、噓の哲学を始めます。噓について丁寧に考えることを通じて、人間とは何だろうかという根源的な問いが問われることになるでしょう。考察は、笑い、苦しみ、善意、友人、家族、社会、尊重、成長、自分らしさにまで及ぶことになります。これらはどれも人間の生の重要な側面です。人間を多面的に描き出す少し長い道のりを歩んだ後、最後に、詩「うそ」に立ち返りましょう。さっきよりももっと、何が本当に言われているのかを私たちなりに考えられるようになれば、本書の狙いは達せられたことになります。
(*):谷川俊太郎(詩)中山信一(絵)『うそ』主婦の友社、二〇二一年
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