ちくま新書

経済成長至上主義を問いなおす
山田鋭夫『ゆたかさをどう測るか―ウェルビーイングの経済学』ためし読み

国が経済成長を遂げ、モノが溢れかえる一方、人々のつながりは希薄化し、自然環境は破壊され、現代社会はますます息苦しくなっている。GDPという指標の下で富の増大を目指し、社会を測ろうとする経済学は、私たちの「ゆたかな生(ウェルビーイング)」を捉えることができているだろうか。レギュラシオン理論や市民社会論の第一人者が、来るべき社会を構想した新刊『ゆたかさをどう測るか―ウェルビーイングの経済学』(ちくま新書)より、「はじめに」を公開します。
山田鋭夫『ゆたかさをどう測るか―ウェルビーイングの経済学』(ちくま新書)

 誰もが幸せでゆたかな一生を送りたいと願っている。そんなごく自然な願いを社会総体としてどう実現していくか。ある意味で人類は長年、これを夢に見つづけてきた。その夢にむかって今日、ごく初歩的にではあるが、一部諸国や国際機関で真剣に取り組んでいこうという動きが見られるようになった。その成否は予断を許さないとはいえ、この動きの核をなす語が「ウェルビーイング」(well-being / bien-être)である。

 地球規模でみればたしかに、人類が飢餓や物質的貧困の問題を解決したというにはほど遠い。この日本でも、生活苦や相対的貧困にあえぐ人びとは決して少数でない。この点、しっかりと肝に銘じたうえでの話だが、しかし、少なくとも中核的な資本主義諸国においては、経済社会問題の中心は、「貧富格差」(不平等)の問題と並んで、「生活の質」の向上の問題に移行しつつある。つまり主要な課題は、従来の「1人当たりGDP」ないし「生活水準」の量的上昇から、「ウェルビーイング」をいかに実質化し「生活の質」をいかに充実させていくかに移りつつあるかにみえる。

 ここにウェルビーイングとは、とりあえず「ゆたかな生」と言いなおしておこう。各個人が人間としてゆたかに成長し活躍しうるような生を全うすることである。それは同時に、人びとが自らの生をゆたかに創造し享受することによって、社会全体としても安寧と連帯と躍動が生み出されるような状態でもあろう。

 そのウェルビーイングの根本を探っていくと、結局、人びとがいかに個性ゆたかな人間として自らを形成し、その恩恵を互いに分かち合う喜びを共有するかという問題に行きつく。一人ひとりの潜在的能力が十分に開花して発揮され、それによって社会に貢献するとともに、本人も社会的な絆のなかで生きがいを感じうるような生のあり方である。簡単にいえば、各人が社会のなかで「持ち場」をもち、そのなかで個人の「持ち味」が存分に発揮されるような、そんな社会を創ることである。これを「人間形成的」なあり方と呼ぶならば、ウェルビーイングとはそれが経済社会の基軸的な編成原理となることでもある。

 ところで一体、「ゆたかさ」とは何だろうか。これは戦後日本でも幾度となく問われつづけてきた問いである。とくに高度成長末期からバブル経済期にかけてそうであった。しかし、GDP成長によって「ゆたかな富」が曲がりなりにも実現すると同時に、成長主義の弊害が顕在化してきた今の21世紀日本においては、私たちは問いを一歩進めて、「ゆたかな生」とは何だろうかについて積極的に考えていくべきではなかろうか。しかも、それをたんに夢想するのでなく、「ゆたかな生」とは本質的に何であり、それをどう計測し、どう創出していけばいいのかについて、考えてみなければならない。この本では、ささやかではあるが、そうした課題への第一歩を踏み出してみたい。

「ゆたかさをどう測るか」という問いは、たんに「計測」という、いわば技術的問題に終わらない。技術は思想や社会観に担われており、逆に世界観や文明観はどんな技術を発展させるかのうちに宿る。したがって、「ゆたかさをどう測るか」(計測論)の問いは、「ゆたかさをどう捉えるか」(本質論)および「ゆたかさをどう実現するか」(実践論)への問いと不可分である。測定問題は社会ヴィジョンの問題なのである。その意味で「どう測るか」といっても、テクニカルな計測技術の細部に立ち入るのでなく、計測法に体現されている経済社会観やその将来像を問うてみるのが、本書の趣旨である。

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