
†日本の生産性と実質賃金の怪
2024年9月27日の自民党総裁選でも、同年10月27日の衆議院議員総選挙でも論点だったのは、低迷する実質賃金の引き上げでした。日本の経済エリートは、生産性を上げなければ、実質賃金を上げることはできないと論じます。しかし、本書が明らかにする通り、日本の場合、実質賃金が上がらないのは、生産性の問題ではありません。
1998年〜2023年までの四半世紀で、日本の時間当たり生産性は3割上昇しましたが、時間当たり実質賃金はこの間、なんと、横ばいです。正確には、近年の円安インフレで3%程度下落しました。
その間、米国では生産性が5割上昇し、実質賃金は3割弱上がっています。ドイツやフランスの生産性の改善は、日本に劣りますが、実質賃金はフランスが米国に匹敵し、ドイツも米仏ほどではありませんが上昇し、日本をはるかに上回ります。
ただ、過去四半世紀、日本では実質賃金が全く上がっていないというと違和感を持つ人が少なくありません。大企業を中心に、長期雇用制の枠内にいる人は、過去四半世紀の間、ベースアップはゼロが続きましたが、毎年、2%弱の定期昇給(定昇)が存在するため、属人ベースでは実質賃金は1・7倍程度、膨らんでいるからです。
実質賃金は横ばいと言うと、それは、生産性の低い中小企業の話だと受け止める大企業経営者も少なくありません。現実には、多くの大企業でも、現在の部長職や課長職の実質賃金は、四半世紀前の同じ役職者に比べると、むしろ低下しているのが実態です。
長期雇用制の枠内にいる人は、定昇のお陰で、属人ベースでは実質賃金が増えていますが、長期雇用制の枠外にいる人は、人手不足で実質賃金が上がったといっても、もともと賃金水準が極めて低く、経験を積んでも、実質賃金が上がるわけではありません。
それでも何とか暮らしていけたのは、物価も安かったからですが、過去3年の円安インフレで、実質賃金は損なわれ、ギリギリの状態に追い込まれました。これが、2024年10月末の衆院選で与党が過半数割れし、日本でもついに、ポピュリズムの政党が台頭し始めた真因ではないでしょうか。
†本書の執筆動機
本書は、日本の経済構造を分析したものです。既に筆者は2022年に、日本経済の長期停滞の原因について、『成長の臨界』を慶應義塾大学出版会から上梓しています。そこでは、儲かっても溜め込んで、実質賃金の引き上げも、人的資本投資にも慎重な大企業が長期停滞の元凶であることを明らかにしました。
実質賃金を引き上げないから、個人消費が停滞し、その結果、国内売上が増えないために採算が取れず、企業は国内投資を増やさないのです。典型的な「合成の誤謬」が続いていることを論じました。
冒頭で示したように、日本で実質賃金が上がらないのは、生産性が低いからではないのですが、前掲書を執筆後も大企業経営者に会うと、生産性が上がらなければ、実質賃金を上げられないと真顔で繰り返します。事実を広く伝えなければ悪循環から抜け出せないと考え、日本経済の課題を一般向けに分かりやすく論じようと、改めて筆を執った次第です。
もう一つの執筆動機は、2024年のノーベル経済学賞に選ばれたダロン・アセモグルやジェームズ・A・ロビンソン、サイモン・ジョンソンらの論考が、日本の長期停滞を考える上で大きなヒントになると考えたことです。アセモグルとロビンソンは、2012〜2013年に世界的なベストセラーとなった『国家はなぜ衰退するのか』において、歴史的な視点も踏まえ、収奪的な社会制度の下では一国は衰退し、包摂的な社会制度でなければ繁栄できないことを明らかにしました。
彼らは、金権政治がまかり通るようになり、イノベーションの恩恵が一部の人々に集中する米国が収奪的社会に向かうのを警告したのです。これは日本にも当てはまる話ではないでしょうか。皆が気付かないうちに、日本も収奪的社会に向かっているから、長期停滞から抜けだせないのではないかと、筆者は懸念するようになりました。生産性が上がっても実質賃金を全く上げないのは収奪的です。何より、固定費である人件費を変動費に変換するために非正規雇用制が一般的になっているのは、収奪的という誹りを逃れることはできません。
日本では、イノベーションが成長の鍵であると考える人が少なくありませんが、アセモグルとジョンソンは最近の論考で、イノベーションの本質は収奪的であり、その方向性を包摂的なものに変えていかなければ、一部の人々に恩恵が集中し、多くの人を苦しめることになると警鐘を鳴らしています。筆者も全くの同感です。
こうしたアセモグル、ロビンソン、ジョンソンらの論考を日本の読者に分かりやすくお伝えしようと筆を進めていたのですが、ちょうど、執筆の最終段階に差し掛かったところで、彼らが2024年のノーベル経済学賞に選ばれたという次第です。
彼らの論考も参照し、日本経済の「死角」を多面的に指摘し検証していきたいと思います。一般向けに分かりやすく書かれた書籍で、アセモグルらの最新の論考に踏み込んだ類書は今のところ存在していません。
†本書の内容
既に本書の内容にかなり踏み込んでいますが、以下、各章の内容をざっと紹介しましょう。
第1章は、本書の総論的位置付けです。日本の実質賃金が低迷しているのは、生産性の問題ではないことを国際比較などから明らかにします。また、儲かっても溜め込み、実質賃金の引き上げにも人的投資にも消極的な大企業が長期停滞の元凶であることを確認した上で、なぜそうした状況に陥ったのか、歴史的に分析していきます。アセモグルやロビンソンらの論考を基に、日本の長期停滞を考えます。
第2章では、実質賃金を引き上げないことのマクロ経済的な弊害を大企業経営者が認識できない理由を深堀りします。人口が減っているから消費が増えない、と大企業経営者は繰り返しますが、過去四半世紀、生産性は3割も上がっているので、人口減少を理由にするのは誤りです。今も実質ゼロベアが続いていますが、長期雇用制の枠内にある人は、賃金カーブに沿って、毎年の昇格、昇級で、それなりに実質賃金が上がります。しかし、枠外にいる人たちは、そうした恩恵を全く得られていません。四半世紀にわたって実質賃金が全く上がっていないのは、近代以降、先進国では前例がありません。これが「貧しくなった日本」の真因であり、インバウンドブームを喜んでいる場合ではありません。
第3章では、好調な海外直接投資の実相に迫ります。国内では売上が増えないため、国内投資は抑えられ、海外での投資ばかりが積極化されていますが、その恩恵は、国内にほとんど広がっていません。海外投資の収益率が高いのであれば、やむを得ないとも言えるのですが、実は多くの人が思っているほど、それが高いものではないことを明らかにします。
第4章では、雇用と物価をめぐる近年の日本銀行の二つの誤算についてお話しします。2013年に異次元緩和を始めた際、2%インフレ達成の短期決戦に踏み切ったのは、団塊世代の退職で人手不足が始まり、賃金が上昇すると日銀首脳が見込んでいたからだと思われます。しかし実際には、高齢者と女性の労働供給の増大が賃金上昇を大きく抑えることになりました。これが第一の誤算です。第二の誤算は、現在進行中ですが、当初、短期に終息すると説明していた円安インフレが長引いていることです。これは、働き方改革で、正社員が残業を行うことができなくなり、経済の供給の天井が低くなっていることが大きく影響していると思われます。
働き方改革で、残業が増やせなくなったことは、供給サイドの柔軟性を損ない、潜在成長率が低下していることを意味します。なぜ、この深刻な事態を政策当局者は見過ごしているのでしょうか。第5章では、1990年代に日本の潜在成長率が大きく下方屈折した際も、週40時間労働制への移行という働き方改革が大きく影響していたにもかかわらず、今回と同様、政策当局者が問題を見過ごしていたことを明らかにします。
第6章では、日本の長期雇用制の行方とコーポレートガバナンス(企業統治)改革の弊害についてお話しします。筆者は、企業の長期的な成長を考えた場合、長期雇用制がなお有効だと考えています。ただ、日本の雇用制度にガタが来ているのも確かなので、そのための改革の方向性についてもお話しします。また、1990年代末以降のコーポレートガバナンス改革が、日本経済のマクロパフォーマンスを少なからず損なったことも、指摘します。
第7章では、アセモグルやジョンソンらの論考を基に、イノベーションの本質について検討します。日本では「イノベーションで成長を高める」というのが常套句ですが、実際には、イノベーションには収奪的なものと包摂的なものの二つのタイプがあって、前者は恩恵が一部の人に偏り、むしろ多くの人を苦しめます。イノベーションは、本来収奪的であって、それを社会が飼いならす必要があることを論じます。
それでは、皆さん、筆者とともに日本経済の「死角」をめぐる謎解きの小旅行に出かけましょう。
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【目次】
第1章 生産性が上がっても実質賃金が上がらない理由
1 なぜ収奪的な経済システムに転落したのか
アベノミクスの大実験の結果/成長戦略の落とし穴/未完に終わった「新しい資本主義」/生産性が上がっても実質賃金は横ばい/米国の実質賃金は25%上昇/欧州は日本より生産性は低いが実質賃金は上昇/日本は収奪的な社会に移行したのか/儲かっても溜め込む大企業/不良債権問題と企業の貯蓄/筋肉質となった企業がとった行動/守りの経営が定着/定着したのは実質ゼロベア?/家計を犠牲にする政策/異次元緩和はいつ行われるべきだったか
2 コーポレートガバナンス改革の罠
青木昌彦の予言/メインバンクの代わりに溜め込んだ/メインバンク制崩壊とコーポレートガバナンス改革/コーポレートガバナンス改革の桎梏/非正規雇用制という収奪的なシステム/良好な雇用環境の必要性/収奪的な雇用制度に政府も関与
3 再考 バラッサ・サミュエルソン効果
生産性が低いから実質円レートが低下するのか/日本産業の危機
第2章 定期昇給の下での実質ゼロベアの罠
1 大企業経営者はゼロベアの弊害になぜ気づかないのか
ポピュリズムの政党が台頭する先進各国/実質賃金が抑え込まれてきた理由/問題が適切に把握されていない/属人ベースでは実質賃金は上昇している/実質ゼロベアが続くのか
2 実質ゼロベアの様々な弊害
インバウンドブームを喜ぶべきではない/賃金カーブの下方シフト/賃金カーブのフラット化も発生/実質賃金の引き上げに必要なこと
第3章 対外直接投資の落とし穴
1 海外投資の国内経済への恩恵はあるのか
一世代前と比べて豊かになっていない異常事態/海外投資は積極的/国際収支構造の変化/海外投資の拡大を推奨してきた日本政府への疑問/好循環を意味しない株高
2 対外投資は本当に儲かっているのか
勝者の呪い/高い営業外収益と無視し得ない特別損失/キャリートレード?/過去四半世紀の円高のもう一つの原因/円高危機は終わったのか/資源高危機/超円安に苦しめられる社会に移行/なぜ利上げできないのか/日銀は「奴雁」になれるか
第4章 労働市場の構造変化と日銀の二つの誤算
1 安価な労働力の大量出現という第一の誤算
ラディカルレフトやラディカルライトの台頭/高齢者の労働参加率の高まりのもう一つの背景/女性の労働力率の上昇は技術革新も影響/異次元緩和の成功?/第二のルイスの転換点?/労働供給の頭打ち傾向と賃金上昇/ユニットレーバーコストの上昇
2 もう一つの誤算は残業規制のインパクト
コストプッシュインフレがなぜ長引くのか/働き方改革の影響が現れたのは2023年春/需給ギャップタイト化の過小評価は2010年代半ばから/古典的な「完全雇用状態」ではない
3 消費者余剰の消滅とアンチ・エスタブリッシュメント政党の台頭
ユニットプロフィットの改善/グリードフレーションか?/大きな日本の消費者余剰の行方/小さくなる消費者余剰/消費者余剰の消滅とアンチ・エスタブリッシュメントの台頭
第5章 労働法制変更のマクロ経済への衝撃
1 1990年代の成長の下方屈折の真の理由
長期停滞の入り口も「働き方改革」が影響/構造改革派の聖典となった林・プレスコット論文/構造改革路線の帰結/潜在成長率の推移/週48時間労働制から週40時間労働制への移行/労働時間短縮のインパクト/バブル崩壊後のツケ払い
2 再考なぜ過剰問題が広範囲に広がったか
誰がバブルに浮かれたのか/実質円安への影響/今回の働き方改革も潜在成長率を低下させる/かつての欧州とは問題が異なる
第6章 コーポレートガバナンス改革の陥穽と長期雇用制の行方
1 もう一つの成長阻害要因
これまでのまとめ/メンバーシップ型雇用とジョブ型雇用/雇用制度を変えようとすると他の制度との摩擦が生じる/メインバンク制の崩壊と日本版コーポレートガバナンス改革の開始/メインバンク制のもう一つの役割/理想の経営からの乖離/冴えないマクロ経済の原因とは
2 略奪される企業価値
株式市場の実態/収奪される企業価値/本末転倒の受託者責任/米国の古き良き時代とその終焉
3 漸進的な雇用制度改革の構想
ジョブ型を導入すると一発屋とゴマすりが跋扈/長期雇用制の維持と早期選抜制の導入
第7章 イノベーションを社会はどう飼いならすか
1 イノベーションは本来、収奪的
果実の見えないテクノロジー革命/ハラリが警鐘を鳴らしたディストピア/イノベーションの二つのタイプ/生産性バンドワゴン効果は働くか/平均生産性と限界生産性の違い/第一次産業革命も当初は実質賃金を下押し/実質賃金の上昇をもたらした蒸気機関車網の整備/汎用技術が重要という話だけではない/資本家や起業家への対抗力を高める/戦後の包摂的なイノベーション/自動車産業の勃興のインパクト
2 野生的なイノベーションをどう飼いならすか
1970年代以降の成長の足踏み/イノベーションで失われた中間的な賃金の仕事/イノベーションのビジョンとフリードマン・ドクトリン/具体案を提示したのはマイケル・ジェンセン/成長の下方屈折とその処方箋/ノーベル経済学賞の反省?/経済政策の反省/野生化するイノベーション/収奪的だった農耕牧畜革命/AI新時代の社会の行方/既存システムの限界/付加価値の配分の見直し/反・生産性バンドワゴンを止めよ
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