ちくま新書

これが”健脚”商売の全貌
手紙だけじゃない。大名や商人のカネから江戸の文化や各地の災害情報……彼らは何をどのように運んだか

たとえばベストセラー作家の曲亭(滝沢)馬琴は、誰とどんな交流をしていたのか。手紙一通、荷物一箱の運び賃、日数はいかほどか。飛脚の成り立ちやビジネス化成功の裏話、強盗や自然災害への備えまで、“健脚”商売の全貌を解きあかす『飛脚は何を運んだのか――江戸街道輸送網』の前書きを公開します。江戸時代を「脚」で下支えした飛脚ネットワークとは !?

はじめに ―― 死語にならない「飛脚」

 現代日本人は当然のように郵便・運送制度を廉価で使用し、手紙や荷物を近距離また遠方に発送している。ところが、東日本大震災や能登大地震のように、ひとたび大災害が生じ、道路が寸断されると、運送のマヒが起こり、給油所やスーパーの店頭で長蛇の列をなし、品薄状態に陥り、日常生活に支障を来す。その刹那、日本人は郵便・運送制度の便利さを、快適な生活を維持するのに不可欠なインフラであることを改めて実感する。
 しかし、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。歴史を忘れやすい日本人は、地震・豪雨など大きな災害が起きる度に毎回〝改めて〞を繰り返す。郵便・運送制度の有り難さを身に染みて理解していながら、日常の多忙さにかまけて便利さに無自覚且つ我がままとなる。
 郵便・運送制度が近代的な意味で整う遥か以前、江戸時代以前の日本列島に住む人たちは一体どのように手紙や荷物を届け、情報のやり取りをしたのであろうか。どこの誰または業者に依頼したのか。それらはどんな仕組みで運営されていたのか。遠隔地で発生した災害をいかに知り得たのか。そんな基本的な問いに答えようとするのが本書の目的である。
 手紙・荷物を運ぶ飛脚の存在は平安時代末期まで遡る。治承・寿永の乱に飛脚が戦線の情報をもたらす存在として生まれた。但し、武士の使った飛脚は商売としてのそれではなく、武家の身の回りの世話をする雑色が主人の命令で務めた。
 戦争から生まれた飛脚だから、治承・寿永の乱が終結すれば、本来は死語になってもよかったはずである。しかし、飛脚の語は死語となることなく残り続けた。
 その理由は鎌倉時代に絶え間ない政治対立と戦争があったからである。鎌倉時代は鎌倉に武家の府が置かれたことで公武の二元支配となり、公武間で政治的緊張を孕みながら鎌倉―京都(六波羅探題)を結ぶ幕府の通信制度「関東飛脚」(また鎌倉飛脚)が機能した。武家の専売特許にとどまらず、貴族・寺社も下人や神人・寺男を自前の飛脚として使った。
 室町時代も将軍権威の弱体化と共に地方が不安定化すると、飛脚は死語になることなく、しぶとく残り続けた。戦国時代に突入すると、死語になるどころか、戦国大名により飛脚が盛んに使われるようになる。永禄年間(1558―70)には「早飛脚」が史料上に多く表れた。戦争を背景に敵方の情報を求める戦国大名の強い動機の下に飛脚は生き続けた。
 江戸時代に入ると、飛脚はビジネス化した。「早飛脚」の語も民業の飛脚問屋の花形運輸サービスの名称として使われた。江戸期に成熟した飛脚問屋は、特に武家(幕府・大名・旗本)を得意先とし、江戸幕府の庇護を受けながら、三都と主要街道を中心に本店・出店・取次所を結ぶ輸送網を築いた。早飛脚制度を充実させ、より速く確実な輸送を目指した飛脚問屋は利用層を武士だけにとどめず、商人、さらに村名主へと拡大した。
 そのため運ぶ荷物は、御用(公用)荷物と町人荷物を同時に運ぶ〝公私混載〞であった。産地の特産物(生糸、織物、紅花など)を輸送し、また遠隔地間で現金を動かさずに決済を可能とする為替手形を扱い、商取引のための現金を運んだ。現金を扱うため、預金・融資の金融機能も担った。災害が発生すれば、遠方の得意先に災害情報を無償で届けた。災害の概要は木版刷りされ、得意先に配られ、情報は派生的に地域に流布された。
 平和期の江戸時代に発展した飛脚問屋は、同業者同士で仲間を組織した。先進地域である京都、大坂の上方で業者・仲間組織が生まれ、そして〝後発〞の江戸でも仲間が組織された。仲間が互いに提携することによって列島規模の輸送・通信を可能とした。

チリンチリンの町飛脚「立花屋」の輸送ルート

明治維新は飛脚問屋の転機となる。明治政府は明治3年(1870)七月、飛脚問屋との御用契約を打ち切り、国営の郵便制度設置へと大きく舵を切る。江戸期以来の仲間を母体に飛脚問屋は会社を組織し、郵便制度に対抗する。郵便制度導入を企図した前島密と、飛脚仲間惣代の佐々木荘助との交渉の結果、明治五年六月に飛脚問屋は陸運元会社を組織する。
 前島密は郵便制度上で「飛脚」用語の使用を禁止し、また郵便取扱所の担い手から飛脚問屋を意図的に排除した。元飛脚たちも「飛脚」の語を捨てたのだ。飛脚は死語になりかけた。しかし、約七百年使われ続けた飛脚は、そう簡単には消えなかった。一部の物流業者の間で「飛脚」の語が使われた。滋賀県では買い物屋は「飛脚さん」と呼称された。葬祭前の連絡係は「ヒキャク」と呼ばれた。とは言え、風前の灯火であった。
 飛脚仲間の結成した陸運元会社は内国通運となり、国際通運を経て、昭和12年(1937)に国策会社日本通運が誕生する。戦時中は軍需物資を前線へ輸送する戦略物流(ロジスティックス)を構築し、食糧・弾薬・薬を運ぶことで戦争の一端を担った。
 戦後、「飛脚」は死語とならず、息を吹き返した。昭和32年(1957)に佐川急便が京都で創業した。起業当初から「飛脚の精神」を掲げて、トラックの荷箱に走り飛脚の図を採用した。佐川急便が企業として全国的に成長し、輸送サービス名に「飛脚」の語を積極的に使用したことにより、飛脚の語は令和の今日まで命脈を保った。
 さて、日本は働き方改革に伴う「2024年問題」の渦中に引き続きあり、このまま行けば、日本の物流が一部機能マヒに陥りかねない問題に直面している。現代日本人が便利さを追求する余り、物流関係業者は様々な場面で改革を求められている。我がままになり過ぎた荷主たちは改めて「運ぶ」ことの意味を歴史的に顧みる必要があるのではないだろうか。
 本書の第1章では曲亭(滝沢)馬琴の飛脚利用から起筆する。江戸時代後期に戯作者として活躍した馬琴は、大坂の板元とのやり取りに飛脚問屋の「嶋屋佐右衛門」「京屋弥兵衛」を頻繁に利用した。平和期に成熟した飛脚制度の恩恵を受けた代表格とも言える。
 NHK大河ドラマでは、江戸の出版プロデュースとして名を馳せた板元の蔦屋重三郎(1750―97)を主人公にした「べらぼう ―― 蔦重栄華之夢噺」が放映中である。おそらくドラマの中で飛脚が描かれることはほとんどないであろうが、蔦屋の見出した馬琴が、上方の板元や人士と交流するのに飛脚問屋を盛んに使って校合の輸送を行い、また手紙で意思疎通を図ったことを視聴の際には思い出していただきたい。
 世界では戦争の影が次第に広がりつつある。日通(旧飛脚問屋)が再び軍事利用される日が到来し、戦地から家族や兄弟の近況を軍事郵便で、また戦死報告を電報で受け取ってから、初めて平和の有難さを実感するのではもう手遅れである。戦争と平和の相貌を兼ね備えた「飛脚」という言葉の意味を改めて本書を通して嚙みしめて頂ければ望外の喜びである。

【目次より】

第1章 馬琴の通信世界

第2章 飛脚の誕生

第3章 三都の飛脚問屋の誕生と発展――ビジネス化した飛脚業

第4章 飛脚問屋と出店、取次所

第5章 飛脚輸送と飛脚賃

第6章 奉公人、宰領飛脚、走り飛脚

第7章 金融と金飛脚

第8章 さまざまな飛脚

第9章 飛脚は何を、どうやって運んだか

第10章 災害情報の発信

第11章 飛脚の遭難

第12章 飛躍する飛脚イメージ-

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