†貧困とは何か?
貧困とは何だろうか?
動物として生きていくための食べ物に困ることだろうか?
それとも、人間としての生活をするために必要な物を欠いていることなのだろうか?
私たちは、本書で貧困について考えていくが、まず始めにそのような問いから考えることにしたい。
貧困について考えるということは、すなわち、人間の「生」とは何か、私たちの「生活」とは何かを根本から考えることに他ならない。
†いのちのとりで裁判
(原告団の弁護士)「志賀証人に最後の質問です。憲法第25条はこの日本で守られていると思いますか」
(被告の弁護士)「異議あり。その質問は本件とは関係のないものです」
(原告団の弁護士)「いえ、この質問は本件と直接的に関係するものです。裁判長、これが最後の質問ですので、志賀証人の発言許可をお願いします」
(裁判官)「証人の発言を許可します」
(志賀)「この日本において憲法第25条は実質的に守られていないものと思われます」
これは、2023年8月2日、いのちのとりで裁判・岡山地方裁判所での一幕である。「いのちのとりで裁判」とは、2013年、平均6.5%、最大10%の生活保護基準(生活扶助基準)の引き下げが国によって決められ、その後、3回に分けて引き下げが実行されたことに対し、全国29都道府県、1000名を超える原告が違憲訴訟を提起し、国・自治体を相手に闘いを展開している裁判である。
私は貧困理論の研究者として岡山地裁に出廷し証言した。冒頭のやりとりは、その裁判の終盤の様子である。「異議あり」と弁護士が発言するシーンはテレビドラマなどで私も観たことはあったが、リアルな「異議あり」は初めて耳にした。
被告側の弁護士がなぜ異議を申し立てたのか、法律の専門家ではない私にはわからない。しかし、日本の貧困対策の最後の砦とりでであり、またそれゆえに「いのちのとりで」でもある生活保護制度が「現代日本の貧困」にしっかりと対応しているかどうかについては、私のこれまでの研究成果から一定の判断はできる。
生活保護法は第1条に記されているように、憲法第25条に基づくものとされている。そして、憲法第25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と記されている。したがって、生活保護制度が「現代日本の貧困」に十分に対応できていないならば、それは憲法第25条も守られていないことになる。
「最低限度の生活」というのは、最低でもこれだけは社会として(または社会を暫定的に代表する国として)、すべての個人に保障しなければならない生活のことである。
†「健康で文化的な最低限度の生活」
2013年に決定された生活保護基準の引き下げは、2012年に自民党が民主党から政権を奪取する際に公約として掲げていたものであった。自民党は生活保護バッシングを繰り返し、世論を誘導し、生活保護基準を引き下げた。生活保護基準が引き下げられると、それと連動している様々な福祉や社会保障の給付額も後退してしまうことになる。
それでも自民党は保護基準の引き下げを実行した。その結果、何が起こったか。制度利用者の生活はより厳しいものとなった。簡潔にいえば、生活保護基準が「絶対的貧困」と呼ばれる水準に近づいていき、憲法第25条に明記されている「健康で文化的な最低限度の生活」との距離が拡大してしまった。
憲法第25条には、「健康な生活」と「文化的な生活」が並列されている。つまり、どちらが優先されるというものではない。にもかかわらず、生活保護基準が引き下げられたことによって、制度利用者は「健康な生活」と「文化的な生活」の二者択一を迫られるようになってしまった。
健康を維持しようとすれば、他者との交流や自分自身が大切に思っている社会的行為をあきらめざるを得なくなる。その反対に、社会参加や社会的行為を大切にしようとすれば、食事の回数を減らすとともに質を落としたり、入浴の回数を減らし、シャワーですますなど、健康を損なうかもしれないような生活費の切り詰めを余儀なくされてしまう。
こうした切り詰めは、そうしない選択肢さえあれば問題はないが、制度利用者にそのような選択肢は用意されていなかった。
「ヒトとしての生存維持」を優先しようとすると、「社会性をもった人間としての生存の維持」が困難となり、「社会性をもった人間としての生存の維持」を堅持しようとすると、健康状態の悪化によって「ヒトとしての生存維持」が脅かされるという状況を国家がつくりだし、そしてそれを世論が追認・黙認していた。
実に不寛容な国家と社会である。この国家と社会は人を殺しているし、いまも殺し続けている。これは比喩ではない。
人間は、健康が損なわれたときにだけ死ぬのではない。社会から排除され、孤立させられ、自分自身が大切であると思うものを奪われたとき、希望を断たれたとき、あるいは尊厳を深く傷つけられたときにも死ぬ。
この「人間を殺す仕組み」をつくり、追認・黙認しているのはわたしやあなたである。
ただし、本書は貧困問題をめぐる責任の所在を問おうとするものではない。あるいは、貧困という社会問題を引き起こしているわたしやあなたの「心の問題」を問うものでもない。
「貧困とは何か」。本書が設定しているこの問いに対し、本書は理論的な説明を尽くしていくつもりである。
この理論的説明のなかで、動物的生存のみならず社会的生存の保障までなされなければならない理由、およびそのような最低生活保障がなされないことが、世界中で合意されている社会正義と矛盾するという事態についても言及する。
貧困問題の現実の深刻さを告発する書籍は既に多くある。また、それを裏付ける実証的な学術書も徐々に増えてきている。これらの先行文献と本書が異なるのは、本書が貧困を根本から理論的に問うという試みにある。そのような意味で、本書は「貧困理論」を旨とする書籍であるといえる。
本書の理論的な説明は、貧困の現実を告発する言葉にさらなる説得力をもたせ、実証的な研究のための基礎理論の盤石化に貢献することを目的としている。
†本書の構成
本書は全7章から構成されている。
序章では、「貧困」という概念、「貧困」の定義、「貧困」の測定について説明している。これらが貧困理論に関わる基礎となる。
第1章から第3章までは、「貧困」という概念(貧困の意味)の歴史的変遷を追う。19世紀以降、現在に至るまでに、「貧困」という概念は段階的に拡大してきた。具体的には「絶対的貧困」→「相対的貧困」→「社会的排除」という発展過程を経てきた。こうした拡大は、「貧困」の意味内容に新たな要素が追加されたということを意味している。それをめぐる理解は、現在の貧困理論の到達点(意義)の理解につながる。貧困をめぐる理解を理論的に深めていくことによるメリットは、形成すべき制度・政策や要請されている取り組みを論理整合的に導出できるというところにある。逆にいうと、それが十分でないならば、きちんとした貧困対策を実施できない。貧困対策は他の諸政策や対策と同様に、「勘」や「感情」に頼って実施されるべきものではなく、理論に基づいて実施されるべきものである。
第4章では、「子どもの貧困」問題について検討することで、貧困と子どもの権利についての考えを深めたい。子どもの貧困対策は、将来の子どもへの「投資」なのか? それとも、一人ひとりの子どもが当然持っていなければならない「権利」のためなのか? そのような問いから始める。これらのいずれを優先するかによって、現在のみならず将来社会のありようは大きく変わり得る。
第5章は、「貧困の根絶」をテーマにしている。第4章までは概して貧困の「緩和」が中心であったが、本章は貧困根絶のために必要な視点を提示している。貧困を「緩和」すればそれだけでよいのか、「根絶」まで目指すのかという選択は、わたしたちが、どのような社会を選択するのかという判断を含んでいる。簡潔にいえば、最終目標として、「行き過ぎた資本主義社会の是正」を目指すのか、「資本主義の超克」を目指すのかということとも関係している。
少なくとも筆者は「貧困の根絶」が必要であると考えているが、その立場に対して違和を感じる読者もいるだろう。予想される違和について筆者は承知しているが、貧困問題に直面する人の数を減らすだけでなく、貧困そのものをなくす社会を目指す立場から、筆者は理論的な説明を展開していく。本書は、学問のための学問ではなく、「人間を殺す仕組み」としての社会を変革するための学問であるという立場を堅持する。
終章では、最新の貧困概念である「社会的排除」を軸とする貧困理論が、貧困を「緩和」するためだけでなく、貧困を「根絶」するための理論としても成立する可能性があることを説明している。これは従来の貧困理論にはなかった積極的な可能性である。
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社会から貧困を強制されている人が目の前にいるとき、ただちに活用できるのは、第4章までの貧困理論である。こうした、貧困を「緩和」するための理論を、本書では「分配関係論的貧困理論」と呼んでいる。
貧困を強制する社会が目の前に広がっているとき、長期的な視点から活用できるのは第5章の貧困理論である。こうした貧困を「根絶」するための理論を、本書では「生産関係論的貧困理論」と呼んでいる。
この二つは、一方が他方に優先するわけではない。2つの理論は両輪なのである。
【目次より】
序 章 貧困とは何か?
第1章 生きていければ「貧困」じゃない?──絶対的貧困理論
第2章 家族主義を乗り越えるために──相対的貧困理論
第3章 ベーシック・サービス、コモン、社会的共通資本──社会的排除理論
第4章「子どもの貧困」に潜む罠──「投資」と「選別」を批判する
第5章「貧困」は自分のせいなのか?──「階級」から問い直す
終 章 貧困のない社会はあり得るか?
