加納 Aマッソ

第83回「見つからなければいいな」

 ここ最近、立て続けに隠れている人を見た。

 はじめは、原宿警察署前の車道を挟んで向かいの植え込みだった。30代と思しき男性がしゃがみ込み、署の入り口を覗くために植え込みから顔を出したり引っ込めたりしている。私は植え込み側の歩道を歩いていたので、数メートル手前で彼を認識し、なんとなく歩く速度を緩めた。同じように他の通行人もちらちらと彼に視線を送りながら、心なしかゆっくりと歩いている。彼はしゃがんだ体勢のまま、左右に素早く動き、ベストポジションを探っているようだった。取材記者なのか、はたまた何かの事件に関与している人なのか判別はつかず、ただ「隠れている」という情報しか得られなかった。しかし、大人が「しゃがみ歩く」という動きをするのは、緊迫した状況であることが多い。自分が最後にしゃがみ歩いたのはいつかと思い返してみたが、やはり隠れている最中だった。7〜8年前、『逃走中』という番組のシミュレーションで、忍者村の中に放たれたハンターに見つからないように、長屋に沿って移動していた時だ。上体を起こし、しゃがみ歩きをダッシュに変えた途端、ハンターに捕まって絶叫した。

 次に見かけたのは、男女ペアだった。二人は六本木一丁目駅の出口を出たところで、案内板と壁の隙間に隠れていた。一瞬、別れを惜しむカップルの睦みであろうと思ったが、目つきを見た瞬間そうではないことがわかった。二人は背中を壁につけながら、案内板から顔を少し出して鋭い視線を道路に向けていた。二人ともカジュアルスーツのような装いであったが、例のごとく私はそこから何も推察できず、ただ隠れていることを理解したのみだ。「物騒だ」と思うにも、今ひとつ要素が足りていなかった。

 しかしこの二つの場面に出くわして、気づいた。私はなぜかうっすら隠れている人たちに感情移入していたのだ。つまり、やんわりと「見つからなければいいな」と願っていた。隠れている側が遂行しようとしている任務が正義であるかはわからないのにもかかわらず、である。本当は、別の誰かに「ここに隠れていますよ!」と告げた方がいい可能性だってある。なのに、ただの通りすがりでしかない私は、「ちょっと顔出しすぎじゃないか?」などと、無意識的に隠れる人の立場になって考えていた。
 そう思うと、映画を観ている時も、「隠れてー!」より、「出てこいー!」と思っている回数は圧倒的に少ないかもしれない。逃げたり隠れたりする人の感情の方が理解できる。誰かを探したり追いかけたりするのは、いつも正義や権力や悪で、私ではない。この精神性は、私の他のあらゆる言動に深く根を下ろし、そのことがさらなる「逃げ」になっているのかもしれない。
 ネットニュースの見出しの多くは「〜〜の容疑で会社員の男を逮捕」という言い方になっている。省略は文字数制限によるが、「(警察が)会社員の男を逮捕(した)」ということなので、追う側が主語になっている。けれど記事の中身をみると、「〜の容疑で、会社員の男が逮捕されました」と、追われていた側が主語で書かれていることが多い。深い意味はないのかもしれないが、雪崩のように流れてくる文字列によって、読み手に少しずつ浸透していく感情はないか、注意しなければいけない。私は何を追うことから逃げているのか。考えたい。

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