ちくま文庫

待ち会のプロ
『戌井昭人 芥川賞落選小説集』書評

戌井昭人さんと親交の深いノンフィクション・ライターの村岡俊也さんにご寄稿いただきました。芥川賞受賞作発表の〝その瞬間〟作家はどうしているのか⁈ PR誌「ちくま」2025年2月号より転載。

 雑誌「ブルータス」のために、劇作家の宮沢章夫さんと対談してもらったのが二〇一〇年のことだから、戌井さんとはもう十五年近い付き合いになる。戌井さんはすでに「まずいスープ」で芥川賞候補作家になっていたが、そんな佇まいは微塵もなく、打ち上げの席では「小上がりの障子を開けると、家族が飯を食っているような店が好き」とか、「作家の川崎長太郎が暮らした小田原の小屋を探しに行った」みたいな話ばかりしていて、実世界と小説の境目がほとんどない作家なのだと思った。その感覚が面白くて、同じく「ブルータス」誌上で、日常を撮影した写真と詩のようなショートエッセイを合わせた「沓が行く。」というタイトルの連載をしてもらった。最初の打ち合わせでは、俳人の尾崎放哉の話をした。月に二度、原稿をもらう。そのメールにはいつも「今日は府中まで歩きました。なんだか寂しくなって、競輪に行きました」「サンフランシスコにいます。おばさんが太極拳しています」という、よくわからない近況が書かれていた。あまりに金がなくて就職しようとしたら、父親から「ふざけるな」と怒られた話も聞いた。発表される小説は、戌井さんの日常とやはりどこかリンクしていて、ほとんどノンフィクションではないかと思っていた。その印象が変化したのは、四度目の落選作である「すっぽん心中」からかもしれない。退廃的なムードと霞ヶ浦という戌井さんが愛する世界に、それまでは触ったことがなかった暗さのようなものが流れていて、もしかしたら小説の方が面白いかもしれないと思った。

「四度も芥川賞に落ちるってどういう気持ちですか?」と失礼な質問をすると、戌井さんは「やらせてくれそうなのに、絶対にやらせてくれない女の人みたいな気持ち」と言っていて、そのもどかしさがとてもよく伝わったが、この先もやらせてくれないだろうなとも思った。五度目の落選時には何も聞かなかった。

 数年前に文藝春秋から、昨年に新潮社から私が書籍を出版した際に、どちらの編集者も戌井さんと同じ担当でなんだか嬉しかった。新潮社から出た私の本が、望外にも新潮ドキュメント賞の候補作にノミネートされ、編集者から結果発表を待ち受ける「待ち会」を開くかどうか聞かれた。受賞できたならばただ喜べば良いが、落選したらどんな顔をしたら良いのかわからない。そう思って一度は断ったが、せっかくなら落選のプロである戌井さんに来てもらおうと思い直して、待ち会を開くことにした。

 戌井さん、二人にとっての担当編集者、それから共通の友人である写真家と私の四人で、居酒屋の小上がりに座った。酒を呑めない私をよそに、三人は呑み進め、その席で「縁起でもないけれど」と言って、この落選集が出版されることも聞いた。

 まだ酔うには少し早い時間に担当の携帯が鳴り「そうですか、残念です〜」と言い残しながら席を立ち、店の外へ出ていった。なるほど、これが編集者のマナーかと冷静に思いながらも、その場には一瞬、しらけた空気が流れてしまった。「もらえると思っていなかったのに、いざ落選となると悔しいものですね」と、取り繕った言葉を発してしまう私を見て、戌井さんは少し改まったように「いや、でも、芥川賞を獲っていたら、もう小説書いてなかったと思うよ。だから落選って、書けってことなんだよね。村岡くんもこれで書かなきゃいけない」と言った。凡庸だとも思ったが、これほど説得力のある発言もない。いつも、どうしよう、困った、金がないね、と本気の冗談で生きている戌井さんが、初めて作家の顔で話しているのを見た。私以外は全員酩酊し、戌井さんは何度も、もしも私の本が映画化されることになったら脚本を書かせて欲しいと念を押した。あの親しみと切なさと、爽やかさに溢れた時間は落選のおかげで生まれたもので、賞金は惜しかったが、落ちてよかったと割と本気で思った。落選の価値と書くと負け惜しみのようだが、リビドーの昇華がいかに尊いものだったか、戌井さんの場合は、この本が証明している。

関連書籍