私が光栄にもこの優れた書き物の評者に抜擢されたのは、ひとつには「国境なき医師団」の取材のため、2019年末にパレスチナのガザ地区、及びヨルダン川西岸地区を訪れたからだろう。
特にガザはまだ虐殺の事態以前ではありながら、頭上からは一日中ドローンの低い音がし続け、一日のうちのほんの数時間しか電気が供給されず、ちょうど毎週金曜日の平和的抗議活動が彼らガザ市民の自由を断ち切る壁の前で行われては、背後から足を狙われて撃たれる者が絶えないという時期であった。
ちなみにこの後ろから撃たれる銃弾は国際的に禁じられたダムダム弾のように体内で爆裂し、肉と骨を破壊的に砕くと同時に、その不潔さによって時に複数の感染症を引き起こすものであり、その被害者が週ごとに増える状況は、つまりパレスチナの国力それ自体、そして人道支援団体の能力を低下させ続ける「緩慢な戦争」と言ってよかった。
同時にヨルダン川西岸地区でも「緩慢な戦争」は日々続行されており、銃器を携行したイスラエル側の集団が引っ越してきて、周囲の家畜が臭いとか、栽培している野菜が邪魔だと言っては暴力的抗議を実行し、住んでいたパレスチナ人を追い払っていた。それを「紛争」のように呼ぶことはあり得ない、と私は短い滞在ながら考えたものである。
さて、そのような状況の先に10・7があり、執拗で大規模な反撃が市民を襲うことになるのだが、この『アーベド・サラーマの人生のある一日――パレスチナの物語』はそれ以前に継続していた「緩慢な戦争」がいかに狡猾な占有の下に行われていたか、次々と壁に仕切られては移動の自由を奪われていくパレスチナ人がどのようにその暴力に耐えて生活していたか、そして今もなおそうであるかを丁寧に描いた作品である。
副題に「パレスチナの物語」とあり、第一章は「三つの結婚式」と題される。すでに魅惑的な小説の予感に満ちているし、本当はこれ以上説明をしたくない。たとえばここで描かれる世界がフィクションであったとしても、決してそれが夢物語だとは思えない多くの登場人物の緻密な描写、「信じられないほど痛ましい出来事」の丁寧な記録が静かに語られる。逆にノンフィクションであったとすれば、想像を超えるような詳細な取材が下敷きにされていなければならず、そしてやはり「信じられないほど痛ましい出来事」が事実だったということになる。
したがって読者はどちらでもない世界へと読書によって分け入り、なんにせよこの「信じられないほど痛ましい出来事」が私たちの心の中で強固な "真実" として成立してやまないことに驚くべきではないか。なおかつそれが "真実" であるような世界を、我々は強く否定しなければならないと感じるのではないか。現実世界に存在する差別に満ちた場所の暗い根源を。または自分の魂の奥にまで出来上がった堅牢で複雑な回路を持つ壁を。
とはいえ、書評であるからにはある程度の確かな情報をもたらす責任があるだろう。ただしなるべく少なく。
第三章の題が「多数傷病者事故」であることにすべての鍵がある。その鍵があらゆる階級のパレスチナ人の、あるいはあらゆる立場のイスラエル人それぞれの苦悩、欲望を開いてしまう。この見事な小説、ないし見事なルポルタージュはそれまでじっとこの地域でのアパルトヘイト、そして「緩慢な戦争」を描いて待つ。それは起こった事故を出来る限り大切に扱うためだろう。エピソードを道具として使わないための極限の誠実さだ。
私がベツレヘムの隔離されたパレスチナ人地区を歩いた時、その入口には巨大な門の作り物があり、その上にまた巨大な鍵の作り物があるのを見た。今はあくまで難民キャンプでの仮暮しであり、自分たちには帰宅して扉を開くための本来の家がある、というパレスチナ側のメッセージだと説明を受けた。
なるべく多くの人たちの鍵が "真実" を開き、そのことが力に変わることを強く祈る。