些事にこだわり

ある歌の「逆さ歌」なるものの、戦時期にこそふさわしい言葉にはつくしがたい陰惨さについて

蓮實重彥さんの連載時評「些事にこだわり」第23回を「ちくま」1月号より転載します。「逆さ歌」という子どもの無邪気な遊びが戦中とバブル崩壊期という歴史をつらぬいてもたらす不吉さについて。ご覧下さい。

 それがどれほど読まれているのか確かな数字など知る由もないが、大手の出版社の多くはそれぞれ月刊の文芸誌なるものを刊行しており――中には季刊のものもあるが――一応は現代日本の最先端の文学作品なるものが掲載されることになっている。新宿区は矢来町に位置する老舗の新潮社が発行している「新潮」の、二〇二五年の新年号には千葉雅也氏とわたくし自身との対談「驚きの連鎖を生きる」が掲載されているが、そのことの言祝ぎがこの文章の目ざすところではない。また、文京区は音羽に居を構えるこれまた老舗の講談社の刊行している「群像」の先月号には、濱口竜介監督とわたくしとの対談「「見る」ことと「見逃す」こと」が載っていたりもするが、それへの言及もまたこのテクストの意図するところではない。そうではなく、吉岡乾なる記述言語学の専門家がその雑誌に連載している「ゲは言語学のゲ」の十七回目に、ある「歌」とその「逆さ歌」なるものが掲載されていたのだが、それをふと目にした瞬間、途方もない不穏さに捕らわれたことについて触れておかねばならぬと思ったからだ。実際、いまから八十年も昔の戦時中の陰鬱な日々が、その歌詞とともに、禍々しく脳裏に浮かんできたのである。
「さて、子供の頃に遊び歌として僕は「逆さ歌」を歌っていた(……)」と著者の吉岡乾氏は書いている。「どれくらいポピュラーなのかは知らないが、今でもしっかりと憶えているし、あれは過剰な音位転換(倒語)を盛り込んだ遊びだったのだと今になって思う」。そう記してから、著者は、その「逆さ歌」なるものの〈元歌〉と〈逆さ歌〉とを並列しておられる。

(元歌)
〽でた でた つきが まあるい まあるい まんまるい ぼんの ような つきが
(逆さ歌)
〽たで たで がきつ いるうま いるうま いるまんま んぼの なあよ がきつ

 ほとんど忘れかけてはいたが、この〈逆さ歌〉なるものを、確かに耳にしたことがある。八歳になったばかりの昭和十九年の春から夏にかけてのことだったと思うが、すでに首都では空襲が激しくなり始めており、小学校の二年時の授業はほとんど行われておらず、それぞれの家庭が、その子女たちを、集団疎開なり縁故疎開なりで首都を離れさせる算段を繞らせていた時期のことである。ところが、同じ年齢の従妹が通っていた学校ではまだ授業が行われていた模様で、そこで習った歌とやらを彼女は従兄の前で、何の恥じらいもなく口ずさんで見せた。それが、何と「たで たで がきつ……」という〈逆さ歌〉だった。しかも、伯母までが愉しげにそれに和していたのである。
 それを耳にしたわたくしは唖然として、幼いなりに怒り狂った。「たで たで がきつ」などと涼しい顔で口にするとは、何と愚かな集団的振る舞いであることか。この音声の連鎖には凡庸さにはおさまりがつかぬ生の悲惨さともいうべきものが込められている。しかも、吉岡氏の表記とは異なり、「ぼんの」の部分の「逆さ」は「んおぼの」と歌われていた。先生を始め少女らの一群が、教室で「んおぼの なあよ がきつ」などと何の恥じらいもなく大声で歌い終えているのだから、わが日本帝国はこの戦さに負けるしかあるまい……。

 これはすでにどこかに書いたことがあるが、わたくしは、このアメリカ合衆国や大英帝国との戦争に日本は負けるに決まっていると幼いなりに自覚していた。母の従弟にあたる海軍少尉のパイロットが、あるとき鳥居坂にあった祖父の家の廊下に制服姿で正座し、月夜に照らされた中庭の木々の茂みを見るともなく見やりながら、「覚悟しといて下さいよ。日本は負けますから」と呟いたのをはっきりと耳にしたからである。祖母と母親とは、無言で頷いた。幼いわたくしはといえば、戦後の混乱など想像すべくもなかったが、その少尉の言葉をごく自然に受け入れた。その少壮海軍士官の南海での特攻死をラジオで知ったのは、それから数ヶ月後のことである。これも、あの惨めきわまりない「たで たで がきつ……」の、とりわけ「んおぼの なあよ がきつ」などと真顔で歌ってみせた少女たちのせいだ。その幼い結論は、いまも変わることがない。
 ところで、「子供の頃に遊び歌として……歌っていた」と吉岡乾氏が書いておられる『出た出た月が』という曲は、ネット上のサイト「世界の民謡・童謡Worldfolksong.com」によると、「1911年刊行の『尋常小学唱歌』に掲載された文部省唱歌」とされており、さらに検索してみると「作詞不詳/作曲不詳」とされている。一九一一年といえば、和暦でいうと明治四十四年なのだから、この他愛もない曲は大正期からすでに歌われていたことになる。では、その〈逆さ歌〉なるものもまた、あの凡庸な大正期に端を発していたのだろうか。「尋常小学校」などという語彙は昭和十一年生まれのわたくしにとってさえすでに古語となりはてていたが、そんな古色蒼然たる曲を、なぜ戦時下の昭和十九年の小学校の二年生が、クラス全員で声を張りあげて歌わねばならないのか。「綾取り」がはやると戦争になるとよく口にしていた祖母の言葉を想起するなら、「逆さ歌」がよく歌われると戦争が激化するのだろうか。
「群像」誌の「執筆者一覧」によると吉岡乾氏は一九七九年のお生まれだから、その「子供の頃」といえば、一九八五年から一九九五年ごろにかけての、バブル崩壊期のことと推察される。だとするなら、『出た出た月が』という童謡は、それが「尋常小学唱歌」として公式化されてからほぼ七、八十年にもわたり、政治権力の形態の変化を無視して歌いつがれていたことになる。しかも、その愚かな「逆さ歌」なるものは、わたくしの初等教育時代の一九四四年にすでに歌われていたのだから――わたくし自身は絶対に歌うまいと努めた――、昭和という漠たる時代の底なしの陰惨さを象徴するものとして、その後も列島各地で、何の恥じらいもなく口ずさまれていたのだろうか。

 これに続く部分は「逆さ歌」とは一切無縁のことがらであり、また、連載「ゲは言語学のゲ」の著者である吉岡乾氏を個人的に貶める目的など、もちろんいささかも含んではおらぬ。とはいえ、この連載の題名を初めて目にしたとき、ほとんど反射的に「剽窃」という語彙が思い浮かんだこともまた、確かだといわねばなるまい。「剽窃」といっても、わたくし自身が書いたものが無断で吉岡氏によって盗用されたことなど一切ないのだから、そうと主張するつもりなどさらさらない。ただ、そこには以下のような事情が介在しているとのみ書きそえておくこととする。
 小学校の二年時にあたる昭和十九年より二、三年ほど前の、すなわち一九四一年から四二年に掛けての幼稚園時代に、わたくし自身の姓名の「名」にあたる重彥の部分が幼い男女には発音しがたかったからだろうか、いつのまにか、「ゲはシゲヒコのゲ」という言葉が幼い園児たちの間で口にされるようになっていた。それが、いつの間にか、「ゲはヒゲシコのゲ」へと変形されることになったのだが、当時の幼い男女は、いうまでもなく、たがいの名前をファーストネイムで呼びあっていた。実際、ついせんだって行われたばかりの「米寿」を祝うクラス会の折に、久かたぶりに出会ったさる八十八歳の女性に思わずファーストネイムで呼びかけたところ、まあ、ヒゲシコちゃんという言葉が戻って来た。であるからして、「ゲはヒゲシコのゲ」という登録商標は、いまなお禍々しく生きているといわねばならぬ。ところで、「シゲヒコ」から「ヒゲシコ」への変形を「記述言語学」的にどのように説明できるのか、それを連載「ゲは言語学のゲ」の著者に伺ってみたくは思うものの、そんな贅沢だけは、この際、自重しておくのがよかろうと思う。

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