ちくまプリマー新書

大学はなんのためにあるのか?――教員と学生のすれ違い
『大学でどう学ぶか』より冒頭を公開

大学進学率が6割を超え、大学も学生も多様化している現代。約80人の学生の語りから、すべての大学生の指針となる「学び方」を導き出した『大学でどう学ぶか』より冒頭を公開します。

大学教員は「大学での学び」をどう語ってきたか

 『大学でどう学ぶか』というタイトルの本書を手に取るのは、どのような人でしょうか。大学進学を考えている中高生や、そのような生徒を指導する先生、あるいは大学進学を視野に入れているお子さんをもつ保護者の方でしょうか。すでに大学に通っている学生の方かもしれません。

 大学での学びについては、これまでもその内容や意義が説明されてきました。オープンキャンパス、あるいは多くの大学が一堂に会して模擬授業や相談受付などを行う説明会イベント。大学入学式の式辞や祝辞などで触れられることもあります。

 たとえば、2019年4月12日に日本武道館(東京都千代田区)で開催された東京大学学部入学式で、社会学者の上野千鶴子さんは、祝辞として次のようなメッセージを新入生に送っています。

(…)あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。学内に多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムとシステムのあいだ、異文化が摩擦するところに生まれるからです。学内にとどまる必要はありません。東大には海外留学や国際交流、国内の地域課題の解決に関わる活動をサポートする仕組みもあります。未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。異文化を怖れる必要はありません。人間が生きているところでなら、どこでも生きていけます。あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。(傍線は筆者)

 また、大学教員の手によってまとめられた書籍もあります。発達心理学者であり、大学生の学びや成長にも詳しい溝上慎一さんの『大学生の学び・入門──大学での勉強は役に立つ!』(有斐閣アルマ、2006年)をひとつの例として挙げることができるでしょう。重要な点が多々示された書籍ですが、そのなかに、次のような記述をみることができます。

(…)大学での勉強が高校までの勉強と違うことは、誰もがいってきたことである。高校までの勉強には正解があるし、試験にこの問題は出る、この問題は出ないといったように、勉強するべき知識量にも制限がある。(中略)

 大学での勉強(学問)には、基本的に正解というものはない。もちろん大学での勉強と一口にいっても、基礎から最先端までレベルはさまざまである。基礎の極に向かえば向かうほど正解があり、少なくともこういうふうに考える、理解するという基礎や基本がある。それは「学問」というよりは「勉強」という姿に近く、大学受験までの「勉強」ともかなり似ている。しかし、最先端の極へ向かえば向かうほど一律的な答えというものはなくなってきて、いくつかの根拠をもって「こういうふうに見える」「こういうふうに考えられる」となってくるのが一般的である。何を根拠とするかによってある問題や事物の見方や考え方が異なってくるということは、文科系、理科系を問わずにあるのであって、この最先端の極は「勉強」と呼ぶより「学問」と呼ぶにふさわしいものである。(溝上2006、21─22頁)

 上野さんが指摘していることと、溝上さんが指摘していることは、本質的に同じだといえるでしょう。大学で扱うのは答えのない問いであり、それを自ら追究していく学びこそが大事。私自身、この指摘には強い共感を覚えます。私もこれまで高校生を相手に大学での学びについて語るときは、同じような説明をしてきました。「この世界は極めて複雑であり、わかっていないこと、みえていないことがたくさんある。小・中・高校でも「探究学習」で、日常生活や社会の謎にせまる経験を積むようになっているが、大学はそれを本格的に行うところ。「勉強」から「学問」へ。大学での学びはそのように表現することができる」──。

教員と学生との距離

 とはいえ、以上はあくまで大学教員の目からみた学びの特徴です。そしていうまでもなく、大学教員の多くは「研究者」という顔ももっています。なるほど、ここで以上の2つを見直せば、「研究こそが大学での学び」というメッセージになっているようにも思えます。

 答えのない問いを追究する営みは「研究」そのもの。たしかに大学での学びには、研究の要素が含まれています。この点についてはのちほど触れますが、ただ、研究がどのようなものか十分に知り得ていない状態で「答えのない問いを扱うんだよ」「研究こそが大学での学びだよ」といわれても、なかなか実感がわかないかもしれません。

 実際に学生たちは大学での学びをどのようにイメージしていたのか。そこに「研究」の要素が入っていたのかどうかを知りたいと思い、実験的な調査を行ってみました。私が担当している大学1年生向けの授業で配布した簡単なアンケート調査です。実施時期は2024年7月。早稲田大学教育学部教育学科教育学専攻生涯教育学専修に入学した学生が対象で、65名が回答してくれました。

 まず、大学入学時に、大学での学びや成長に対してなんらかのイメージをもっていたかどうかを尋ねたところ、65名のうち52名の学生が「イメージをもっていた」と回答していました。残りの13名は「合格することが目標だったので、そのあとのことは考えていなかった」「WEBサイトなどをみたけれども、その説明では具体的なイメージがわかなかった」といった理由で「否」と回答していたようです。

 では、52名の学生はどのようなイメージをもっていたのでしょうか。具体的に記述してもらったところ、「興味のあることを学べる」「広くて深い、世界の多様さに触れる」「やる気との戦い」「ディスカッションが増える」「抽象的な内容を扱う」「自分の意見を表現することが求められる」といった言葉が並んでいました。決して間違ったものではありません。どれも大学での学びの特徴をあらわしています。ただ他方で「研究」活動に関することを書いた人がいるかどうかを確かめると、該当するイメージを挙げた学生はわずか1人でした。学生は「研究」以外のイメージを抱きながら大学に入学している。大学教員とのあいだの距離を痛感する経験でした。



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