「人が青っぽいオレンジ色、赤みがかった緑、黄色っぽい紫を思い浮かべようとすると、南西から吹いてくる北風を思い浮かべるような感じがするだろう。……白いまじりっけのない水を思い浮かべることは誰もできないだろう、ちょうど透き通ったミルクを思い浮かべることができないように。」
人々の多くは色彩に満ちた世界を生きている。しかし、深くなじんだ色彩それ自体にあらためて注意を向けてみると、謎が次々に立ち現れてくる。たとえば、青っぽい緑や黄色っぽい緑は容易に想像できるが、赤っぽい緑は想像できない。また、透明な緑や透明な赤は想像できるが、透明な白は想像できない(想像できるのは、せいぜい半透明な白だ)。そして、この想像不可能性は、南西から吹いてくる北風を想像できないことのような、論理的な不可能性であるように思われる。それはいったいなぜだろうか。
ところで、いま冒頭で引用した文章は、ゲーテの大著『色彩論』の一節だ(画家P・O・ルンゲからの書簡)。ニュートン以来、色彩現象は人工的な実験環境のもとで観察され、屈折率や波長といった数量的性質に還元されるかたちで理解されてきた。ゲーテはこの傾向に抗して、現実の生活のなかで我々が経験している多様な色彩現象を重視し、その事例を精力的に収集している。そして、数多くの事例を見渡すことで、それらすべてを秩序づける色彩現象の本質を取り出そうと試みている。その結果として彼が導き出すのは、光と闇という両極の混合――場を照らすという光の行為と、場に制約されるという光の受苦とのあわい――として一切の色彩現象を説明する理論だ。
現代を代表する哲学者ウィトゲンシュタインは、ゲーテの熱心な読者であり、彼に私淑する「弟子」だったと言える。彼が陰に陽に言及しているゲーテの著作は、詩や戯曲、小説、そして自然研究など、およそあらゆる分野にわたっている。今回ちくま学芸文庫に入った『色彩について』も、晩年の彼がゲーテの『色彩論』の影響を受けて書き綴った遺稿である。
色彩論であれ、動植物の形態学であれ、ゲーテの自然研究はウィトゲンシュタインにとって乗り越えるべき批判の対象であり、哲学的思考を惹起する恰好の触媒にほかならなかった。たとえば彼は、「ゲーテの色彩論は、まったく馬鹿げたものではあるが、非常に興味深いポイントがいくつもあって、私に考えるよう刺激を与えてくれる」(Malcolm, N., Ludwig Wittgenstein: A Memoir, Clarendon Press, 1984, 77)と語っている。彼がゲーテの色彩論を「まったく馬鹿げたもの」と評する主な理由は、ゲーテが多様な色彩現象に注目しながらも、結局のところそれらすべてを明るさ(光と闇の混合)という単一の観点からのみ見て、その観点から単純な理論化へと向かったためだろう。
ウィトゲンシュタインによれば、色彩現象はそうやって単一の観点や理論に押し込めることのできるものではない。たとえば白という色は、「最も明るい色」としてのみ特徴づけられるものではなく、ゲーテ自身も記しているとおり、「不透明な色」等々の意味も含んでいる。ウィトゲンシュタインは、我々が生活のなかで自ずと従っている色彩概念の論理に分け入り、その複雑な内実に粘り強く迫っていく。そして、その複雑さは本来、ゲーテが熱心に収集した多様な色彩現象から見出せるはずのものなのである。
ウィトゲンシュタインはゲーテの研究を批判的に継承しつつ、色彩という、我々にとって最も身近な部類の概念を、あるがままに――つまり、複雑なものを単純化することによってではなく、複雑なものを複雑なままに――理解することを目指す。この探究は、我々の思考や想像を規定する論理の一端を明らかにするものであり、また、経験的な事実と論理的な規範の境界をめぐる重要な洞察を与えるものでもある。
そして、本書『色彩について』に如実にうかがわれるのは、死期の近い彼がこの探究を愉しんでいるということだ。哲学をある種の病ないし呪いと見なし、これを消し去ろうと目論んだかつての彼の姿は、もはやここにはない。読者は、本書における彼の思考の集中、問題に深く入り込むその姿を追い、彼の探究を追体験することで、哲学すること特有の愉しみも受け取ることができるだろう。