ちくま学芸文庫

『日本賭博史』解説

ちくま学芸文庫2月刊『日本賭博史』(紀田順一郎著)より、檜垣立哉さんによる解説を公開します。哲学者でありながら競馬を中心とするギャンブルにも造詣の深い檜垣さんに、賭けと人生、八百長、近代社会の賭博性といった興味深いトピックから、本書の読みどころを紹介いただきました。ぜひご一読ください。

『日本賭博史』と題された本書は、文芸評論家でみずからも多くの著作をものにする紀田順一郎が、『日本のギャンブル』(初出は1966年桃源社、1986年中公文庫)として出版したものの再度の文庫本化である。解説を記している私が産まれた頃に書かれた出版物がこうやって手にとりやすくなるのは、現在の出版状況をみれば稀なことであり、本書が「ギャンブル好き」の読者に愛されつづけてきたことの証左でもあるだろう。

 かつて私が若い頃には、ギャンブル本は、かなり怪しげな競馬必勝法も含めて相当な数が流通していた。そうしたギャンブル本の歴史というのも、日本の民衆史の一頁としてありうるべきものであるが、寺山修司や本書の作者など著名人のものをのぞいては、もはや「失われつつある」歴史的遺物になっている。賭博や、私が主たる専門とする「競馬」にかんしても、現在はインターネットやSNSにおいて膨大な情報や詳細な予想、それに対する感想などが玉石混交ではあるが書きこまれる。だが、「デジタルタトゥー」という言葉とは裏腹に、おそらくこうした雑多なエクリチュールのほとんどは後世に残ることは実はない(1990年代のニフティサーブの会議室の論戦などは誰かが記録していないともはやどこにもない)。だが、書物による、とりわけ『……ブックス』や「ムック本」という形態でのギャンブル本は、1970年代から1990年代にかけて多数発売されていた(私も実家の納戸に積みかさねてある)。ギャンブルは民衆的なものでありながら、つねにある種の文芸的なものと関連するものであった。そうした「書き物」は、ギャンブルという考察
対象そのままに、雑多でかつ怪しげで、しかしある種の蘊蓄をもった者同士の意地の張りあいといった様相を呈するものが多かった。紀田のこの論考が私に喚起してくれるのは、まさにそうした古き良き時代の、ギャンブル・エクリチュールの一面である。

 日本賭博史と名指されてはいるものの、そこには「歴史」にかんするある種の一貫した方法論があるわけではない。現在では、遊戯や賭けの歴史についての社会史的・人類学的研究は相当入念になされている。筆者の「専門」領域である競馬にかんしても、立川健治『文明開化に馬券は舞う:日本競馬の誕生(競馬の社会史1)』(2008年、世織書房)、『地方競馬の戦後史:始まりは闇・富山を中心に(競馬の社会史 別巻1)』(2012年、世織書房)という「正史」とでもいうべき大著が、そして新書としては本村凌二『競馬の世界史』(2016年、中公新書)があり、相当に整備されているという現状がある。だが、紀田のこの書物は、そうした「詳細な」あるいは「客観的かつ網羅的」な記述とは異なった、かつての「ギャンブル文化」そのものの姿が色濃い。まさに一九六〇年代前後の日本の高度経済成長の勢いのなかで、こうした書籍が有象無象に量産された痕跡がみてとれるのである。それはそれで重要な証言であるとおもう。

 その意味で、さまざまな「雑多な賭博の知」をそのままに記述した感はあるものの、この書物が「人は未来が不可測であるということを、どうやって学び知ったのであろう。そして、その不可測に賭けるという意思を、どのように獲得したのだろうか」という言葉で始まることは、この「歴史書」が一種の「哲学」に貫かれていることをよく示している。「賭博は人類とともに発生しているのかもしれない」という文言は、おそらくは「アルコールやタバコ(等、薬草類)を嗜むことは人類とともに発生しているのかもしれない」と置きかえ可能なように、理性的存在であるとみなされがちな人間にとって、実は重要な問いでありうるはずだ。人間には、どこかで、「真面目」な生き物であることから自ら逸脱した、「遊び」や「酩酊」が必要なのである。

 現代社会が、一方で大規模なカジノを構想し、「株」や「債権」という「真面目ぶった」金融ギャンブルのうえに成立しているのに、個人間での金銭を伴う賭け(高校野球の勝敗をめぐる個人間のトトカルチョのたぐいは「不謹慎」な「昭和」では、どこでもおこなわれていた)を「禁止」し、アルコールやタバコの「害」のみを強く主張しながらもそれを「許可」しあるいは「販売する」という「逆説」についてはのちにのべる。賭けることは、紀田もいうように、占いに頼る古代から現代までの各時代において、権力的な支配者側にも民衆にとっても「重要な意思決定」の根拠や、「密かな楽しみ」として存在しつづけてきた。それを回避する人生とは、まさに「未来」が「不可測」であることを「みえないようにする」ものであり、実際に危険なことでさえあるのだ。そうした遊戯のなかで、未来が不可測であること、人生が結局はどこまでも偶然性に左右されること、そしてそこで喚起される情動やカタルシスを経験することは、つねに存在する「虚偽=八百長」への対応も含め、必ずや学ぶべき何かであるはずだ。それは「賭ける」ことのもつ深い意義である(アルコールやタバコや薬草の「酩酊」についても同様の意義があるだろう)。

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 とはいうものの、本書は「賭博史」と題され、とりわけ近世以降の日本の賭博の「歴史」を記述した著作である。そこでは、神事としての賭け=占いから、おもに民衆が考案してきた「さまざまな種類の賭け」が列挙されており、何よりもその多彩さには目をひく。もちろん現代でも、イギリスのブックメーカーは、選挙結果や天気など森羅万象にいたるまで賭けの対象にする。しかし本書で描かれる賭けの記述は、サイコロをもちいた丁半賭博やカルタ・花札賭博、動物賭博(競馬はその一種に分類されるだろう)あるいは射的の賭博などはもちろんのこと、「文芸賭博」といわれる、「言葉」の数やそのいずれに印を付けたかを当てる賭博、また裁判所の判決を予想する「法廷賭博」や、「株式相場」の賭博などを包括し、現代版富くじとしての宝くじなども含めて、実にさまざまな種類へと展開されていく。賭博自身がお金を賭けるものであるのに、貨幣に悪貨──金属含有率が低くほとんど表面だけに金属が付着したのもの──が多く流通する時代において、その貨幣そのものを賭博の対象とした「投げ銭」(輪投げのようなもの)や、その「模様」を当てることなどが流行ったことは、どこかユーモラスな賭けの自己言及性を感じさせる。

 だが、筆者にとって一番面白かった記述は、丁半賭博における「八百長」の記述であった。賭けることは、それ自身偶然性に身をおくことであるのだが、反面かならずそこには「八百長」という「偽の偶然性」が出現する。賭博が人類と同じ程度に古いのと同様に、八百長はこれも賭博と同じくらい古いはずだ。江戸時代の丁半賭博において、床の底に潜り下からサイコロを操作するというもの、あるいはサイコロ自身を削り六面の出現確率を変えたり、薬品をつけて小細工をしたりするというのは古典的なものであろうが、前者に対しては布団を持ち込みそのうえで賭博をする対抗策とか、しかし胴元もそこでわざと負けを繰り返し、怒ったふりをして演技のように布団を投げ飛ばすことなど、八百長自身が賭博の遊戯の一部になってもいる。八百長論で一番面白いのは「策士、策に溺れる」といった事例であろう。八百長をするつもりが、騙す側が失敗し結果的に騙されるといった事態であるが、おそらくそうしたことは賭博の歴史のなかでさまざまにあったのだろうと想定できる。

 また、賭博的な遊戯は身分を問わずおこなわれているものの、古代でも江戸幕府や明治政府でもどこかで「禁止」が発令され、その制限がなされていたという事実は、それ自身考察に値する。先にも記したが、賭博は人類史の「普遍」であり、おそらくそれがない社会や時代など実在しない。にもかかわらず、賭けはつねに権力側にとって「制限」の標的になってきた。もちろんそこでは、徴税ができない金銭流通の問題(ある時代以降だとまさに反社会的団体問題)や、「射幸心」にとらわれる風紀の乱れ等への警戒があることは容易に理解できる。しかしながら、まさに現代日本が「公営ギャンブル」の全盛期であるように、国家や地方自治体といった「個人でない」組織がなす賭博は問題にならないのである。公的機関が賭博的なものを内包すること(それは資本主義社会自身が、賭博社会化することともかかわる)と、つねに生じる賭博の「禁止」という矛盾きわまりない事態は、ギャンブル論にいつもつきまとう。

 私は、とりわけ近代社会において強く現れるこうした忌避は、そもそも「偶然に身を任せる」ことへの、近代社会の直感的な反発が根底にあるからではないかと考えている。近代における国家や権力システムは建前上「計算」によって成り立つものである。そうでありながら、もとより人間の「未来」など「不可測」であるに決まっている。その側面は、勤勉を旨とし、合理的な態度を前提とする近代社会にとって、何らかの仕方で「排除」されるものとなってしまう。このことは、アルコールやタバコなどを忌避的にあつかい、ある種の「国民の健康」という労働力の維持を目指しつつ、同時にそれらが国家のコントロールのもとで商売品として販売されることとまったくパラレルである。とはいえ、皮肉であるのは、先にもふれたように、資本主義化した近代社会が、そもそもそれ自身賭博的であるということだ。公営ギャンブルが容認されているのは、もちろん八百長の可能性を防ぎやすいということはあるだろうが、それは公的な組織自身がそもそも賭博的であるということと根本的にむすびついているとおもわれる。未来の偶然性に身を投げるという「賭博」が明らかにする生きることの本性は、賭博を完全に禁止することを不可能にする。公的機関が一方ではそれをつねに「悪」と規定し抑制をかけると同時に、複雑化した現代において自らがその主催者側になっている不思議さも、賭博論がつねに目標とすべき主題であるだろう。

 この書物は1960年代に出版されたものであるがゆえに、そこでの「現代の賭博」の事例は競馬やパチンコ、あるいは現在年末ジャンボ宝くじ等で巨大化した宝くじを描くことで終わってしまっている。しかしながら現今の社会は、その時代にはなかったパソコンやインターネットといったシステムをもちいながら、さらに多彩な賭けの諸様態を生みだしつつある。それ自身は「人間であること」にとって健全なことであり、ここで描かれた「賭博史」を、さらに未来へとつなげていくことが必要であるだろう。巨大な賭博社会において、いかにも合理的人間として棲息している「かのような」われわれに、未来という時間が結局はわからず、そうした偶然に身を委ねた生を送るしかないことを目覚めさせつづけるために。