現象学とは何か
大学で「現象学」というタイトルの講義をしていると、ときどき、「現象学って何のことだかよくわからないけど、何となく面白そう」という理由で来てくれる人がいる。これはとても嬉しいことだ。ささやかなきっかけであれ、現象学という学問に興味をもってくれたのだから。そして講義をつうじて、現象学の中身についても魅力を感じてもらえると、さらに嬉しく思う。
本書もまた、「現象学って何のことだかよくわからないけど、何となく面白そう」と思ってくれた人に向けて、少しずつ現象学のなかに足を踏み入れてもらうために書かれている。これから本書をつうじて述べていくように、現象学は哲学の一種であるが、本書を読むうえで哲学についての専門的な知識は必要ない。どうしてもややこしい議論をしなければならない箇所もあるが、そこでも一歩ずつ丁寧に話を進めていくつもりである。
そもそも哲学は、大昔の偉い人たちの専有物ではなく、この世界で生きている私たちがみんなで参与できる活動である。哲学の種は身近な経験のなかに隠れているので、自分の経験を振り返りながら言葉を重ねてゆく根気強さがあれば、誰でも哲学を始めることができる。そして現象学とは、この哲学を進めていくためのレシピのようなものだ。
もちろん現象学にかぎらず、哲学のためのレシピはたくさんある。それらのなかでも、現象学というレシピの特徴は、経験に沿って哲学を進めるための方法を丁寧に教えてくれるところにある。特に本書では、現象学の創始者であるフッサールの解説を行うので、いわば「元祖・八つ橋」のように、「元祖・現象学」のレシピを紹介することになる。そこから美味しい哲学ができるかどうかは、みなさん自身に判定してほしい。
現れと出会い
ここまでは、現象学が哲学のレシピの一種であることを確認してきた。そこで次に、このレシピに冠せられた「現象」という言葉の意味についてさらに考えてみよう。「現象」と言うと少し堅苦しい感じがするが、「現象」とは、言いかえれば「現れ」のことである。そうすると何となくイメージが湧いてくる。見上げた空に浮かんでいる雲は、白い色やモコモコした形として現れている。いつも顔を合わせるあの人も、日によって色々な服装で、色々な表情で、私に対して姿を現している。
このように私の身の回りの人びとやものごとは、何らかの仕方で現れることがないかぎり、具体的な相貌をとって私と出会うことがない。裏を返せば、私がそれらの人びとやものごとに出会っているということは、それらが私にとって現れているということである。現れのすべてが何かとの出会いであり、出会いのすべてが何かの現れなのである。
さらに言えば、現象学が扱う現れは、視覚的な現れだけにかぎられるわけではない。ふと吹き寄せてくる風は、肌を撫でる感じや少し冷たい感じとして現れている。どこかの家から聞こえてくるピアノの音は、それを演奏している誰かと、遠くからそれを聞いている私とのあいだでは、違った聞こえ方で現れている。日常的な言葉づかいに照らすと奇妙に思われるかもしれないが、本書では、このように広い意味で――つまり視覚的なものだけでなく、触覚的、聴覚的、嗅覚的、味覚的なものなども含めて――現れについて語っていく。ひとまずここで確認しておきたいのは、何かが現れるということが、とても身近で多様な出来事であるということだ。
すでに述べたように、現象学は、経験に沿って進められる。そしてここで念頭に置かれている経験とは、何かが私に対して現れ、私がそれと出会う場面のことである。現象学は、普段の私の生活のなかで何が起きているのかを描き出し、そこにおいて私が人びとやものごととどのように出会っているのかを明らかにしようとするのだ。