spring

第五話 砂金採り(前編)
spring another season

2024年3月の発売直後から大注目・恩田陸のバレエ小説『spring』、待望のスピンオフ連載がスタート! 本編では描ききれなかった秘められし舞台裏に加えて、個性弾けるキャラクターたちの気になるその後も明かされる予定です。表現者たちの切ないほどに尊い一瞬をぜひ最後まで見届けてください。今回のお話は、バレエ団の教師陣・エリックとリシャールが春に出会う直前のエピソード。バレエ教師にとっての、幸福とは――第五話、前編です。

 

 ベルト着用サインが消えた。
 ひと呼吸置いて、ホッとしたように空気がほどけ、たちまち乗客たちが弛緩して動き出す。
「――去年のソウルのこと、根に持ってる?」
 ベルトを外しつつ尋ねると、リシャールは「いや、別に」と首を振った。
「ウソウソ、根に持ってるよねえ?」
 そう突っ込むと、面倒臭そうに「持ってない」と首を振る。
 やっぱり、根に持ってる。
 リシャールはそれきり無言で、今度の新作の資料を取り出すと、読み始めた。
 なにしろ、彼とは長いつきあいだ。「何を考えているのか分からない」とよく言われるリシャールだが、彼の「いや、別に」イコール「YES」であることは、僕が誰よりもよく知っている。
 昨年、ソウルでのワークショップで、例によって、僕が推す子とリシャールが推す子がまっぷたつに割れた。結局、リシャールにほんの少し迷いがあったため、僕が推す子で決めたのだが、翌年のローザンヌでリシャールが推した子が上位入賞し、よそのバレエ学校に行ってしまったのだ。
 リシャールは、去年僕に「推し」を譲ったことを後悔しているだろうし、今年の夏のワークショップツアーでは、「推しを絶対に譲らない」という意欲を燃やしていることは明らかだ。
 二人の選ぶ基準が違うことは、お互い重々承知している。
 僕は、自分が教えたい、面白い、と思った子を選ぶ。リシャールは、バレエ団に貢献してくれる子を選ぶ。
 僕はこの方針を変える気はない。リシャールの意見も分かるし、そういう視点が必要なことも理解できるけど、僕の場合、そうでないと指導するモチベーションが湧かないし、これまでの結果として、自分の好みで選んだ子のほうが大成しているからだ。好みで選んだのなら、後で後悔することもないし
 僕が思うに、バレエ団が求める条件にあてはまる、という基準で選んだ子は、どういうわけか「それ以上」にはならない。
「上手な子」「よくできる子」というのは、そう評価している時点で、ちょっと距離がある。分析できて、冷めている状態。この先どんなダンサーになるか想像できて、サプライズがない。そんな、見ていてこれっぽっちも心の動かないダンサーなんて、育てて面白いか? こっちの求める条件からははみ出しているけれど、予測不能でなんだか分からないのに面白い、荒削りでムラがあるけど、なぜか目が離せない、という子をスカウトするほうが、ワクワクするし、楽しいよね。
 リシャールはリシャールで、僕の意見は理解しているが、それだけではバレエ団は回らない、というのが信条だ。
 はい、おっしゃることはごもっとも。リシャールの推すダンサーが、バレエ団のレベルをきっちり下支えしてくれていることは間違いない。みんながみんな、キャラクテール・ダンサーでは、バレエが成り立たない。
 そんなわけで、彼と世界を回って生徒をスカウトしていると、毎回ガチでぶつかることが多い。けれど、それが僕らのチームの良さであり、面白さでもあり、打率の高さに繫がっている。互いに譲らないだけに、二人の「推し」が一致したら、それはもう鉄板ということだ。
 これまで、二人の意見が一致した子は、一人残らずスターになった。もっとも、そういう子は誰が見ても傑出しているので、たまに、僕らだけが見つけられるような、個性的でなおかつ二人の意見が合うという子がいれば最高。難しいのは、そこまで頭ひとつ抜けていない子、まだ海のものとも山のものともつかぬ、発展途上にいる子だ。
 残念ながら、どうしても見逃しはある。二人してスルーしてしまった子が、数年後にコンクールで喝采を浴び、えっ、あの時のあの子か、と驚くことも少なくない。
 かつて自分がダンサーとして選ばれる側にいた時は、不安だったし、神経質にならざるを得なかった。選ぶほうはいいよな、あいつらの目は節穴だな、と僻んだり呪ったり憤ったりしたけれど、選ぶ側になってみると、こちらのほうがよっぽどキツイし難しい。選ぶということの責任の重大さを、日々、痛感させられている。
 むろん、あとはダンサー本人次第なのだが、夢破れ、挫折して去っていく若者を見るのは、やはりやるせないものがある。自分が推した子ならば、なおさらだ。
 スカウトするからには、大成してほしい、将来活躍してほしい(それも、あわよくばうちのバレエ団で)という思惑があるわけで、こちらも祈るような気持ちで選んでいる。
 バレエ団に必要なのは一にスター、二にスター、三、四がなくて五にスターだ。
 ごく一部のコンテンポラリー専門のカンパニーを除き、観客はスターを観に劇場に足を運ぶ。
 どんな名門カンパニーでも、スターがいなければ、チケットは売れない。パリオペみたいに、一種の観光地になっているならともかく、いかにスターを揃えられるか、熱心なファンや幅広いファンがついてくれるかは、バレエ団にとって死活問題だ。
 人も羨むスターが揃っていても、常に次世代、その次の世代のスターを仕込んでおかなければならない。いつも下から追い上げられているくらいでないと、スターも緊張感を保てない。世代交代に失敗すると、てきめんに興行収益に顕れる。ひいきのいない観客はあっさり劇場から遠ざかり、別ジャンルのスターのところに行ってしまう。競合相手はバレエ団に限らず、ミュージカルにブレイクダンス、K・POPにエックスゲームズだ。
 今や、あらゆるエンターテインメントや芸術は、観客の可処分時間の奪い合い。スポーツや連続ドラマとも争わなければならないし、相手は巨大資本がバックについていて、どれもこれも手強い。
 だからやっぱり、僕らに必要なのは、一にスター、二にスター、三、四がなくて五にスター、だ。
 スターの養成には時間もかかるし、手間もかかる。人によっては活動できる期間も異なるし、怪我や故障も心配しなければならない。
 ゆえに、常に原石は確保しておきたい。リシャールといつも話しているが、この仕事、まさに『砂金採り』だ。
 たいへんな労力を使い、遠くまで足を運んで、川の流れの中でザルを手に目を凝らし、光る粒がないかと血眼で捜す。徒労ばかりのこともあるし、収穫がないとこの世の終わりみたいな気分になる。
 だけど、キラッと光る粒を見つけた時の高揚感やスリルは、これまた格別だ。特に僕の場合、誰でも認めるような原石よりは、僕しか気付かないようなきらめきを持った原石、僕の好みに合う色みを持った原石を見つけると、それまでの疲労はどこへやら、全身にアドレナリンがみなぎる。将来、スポットライトを浴びて、スターになったところまで想像できたりすれば、最高。まあ、バレエ教師は皆そうだろうけど。
「今年はJUNがいるから、アジアツアーから手ぶらで帰ることはなさそうで、一安心だな」
「うん」
 リシャールも頷く。
 深津純は、日本で前から目をつけていた子だった。大きなバレエ教室の子で、両親とも古い知り合いだから、バックボーンもばっちり。僕とリシャールで彼を獲るということで意見が一致している、という鉄板タイプ。クレバーで華も度胸もあり、本人もうちのバレエ学校とバレエ団に入ることを切望してくれているという、理想的な両想い。
 順調に育っているという話なので、それを確認すればOK。
 ふと、スマホに手を触れた瞬間、思い出した。
「そういえば、ゲオルグが、日本に一人、面白い子がいると言ってたな」

 

 

【後編へ続く】